乳と卵
月に一回、しのぶからすげえいいにおいがする時がある。クリームのような、ミルクのような、乳白色のような、春のはじまりのような、すごくとろんとした、甘いにおいだ。はじめはシャンプーかなとおもった。だけど彼女はシャンプーをかえてないっていうし、確かにそれは髪から香ってくるようなもんじゃあないので、だったらなんだろうと首をひねる。学校に香水をつけてくるような女じゃないし、いったいなんだろう?こういうのはあまり認めたくないが、諸星あたるのほうが敏感なので聞いてみる。なんかしのぶからいいにおいしねえか?
「しのぶはいつもいい匂いさ」
「いやそうじゃなくってよぉ」
「女の子はみんないい匂いがするもんさ竜ちゃん」
とかなんとか言って擦りついてきたのでとりあえず殴っておいた。
女の子はみんないい匂いがするとあいつは言うが、だったらおれからはいい匂いがするんだろうか?たぶんおれを覆っているものは汗とか、朝のみそ汁とか、たこ焼きを焼くソースの匂いとか、そんな生活臭だろう。けっしてしのぶから香るような、甘いとろんとしたものではなくって、どちらかっていうとしょっぱい気がする。きっと、おとこのような。
そう思うとなんだか無性にかなしくなって、こまる。おれは確かに乱暴だし、がさつだけれど、からだはきちんとした女であり、そうでありたいと願っている。たとえ阿呆の親父のせいで男として半生を育てられてきたとしても、性別学上そう分類される以上、おれはそれに逆らう気などないのだ。おんなとして生きたいとおもうのは、いけないことなんだろうか。
「竜之介くん、いっしょにごはんたべない?」
昼休みの教室は春のにおいと弁当のにおいで満ちていたけれど、やっぱりしのぶからはいい匂いがした。しのぶはおれの前の席に腰かけて、そうしておれのつくえに手作りだろう弁当をおいた。ピンクの花がらのランチマットが女らしくて憧れてしまう。おれは白米とのりだけの弁当をだした。
「・・・竜之介くん、なんかわたしに言いたいこと、ない?」
白米を箸ではさんだときに、しのぶがそうつぶやくので思わず手がとまってしまった。しのぶはなんだか真剣な顔でおれを見つめてくる。
「勘違いだったら、はずかしいんだけど、今日よくわたしのこと、見てなかった?」
「えっ」
おれそんなしのぶのこと見てたのか!たしかに心当たりがたくさんあってなんだか顔があつくなる。はずかしい。
「やっ、あのな」
「うん」
「なんか、きょう、おまえから、すげえいい匂いがするから」
そう言ったら、しのぶの顔がみるみる赤くなっていった。えっなんだこの感じ。女の子同士で、どうしてこんな空気になっちゃうんだ。おれはこの空気にどうしていたたまれないのかわからなかったけど、だけど妙であることはなんとなく理解できていた。これはきっと、男と共有するもんじゃあないのだろうか。
しのぶは照れくさそうに笑う。
「なんか竜之介くんにそう言ってもらうとうれしいな」
「そっか?」
「うん。でもなんだろうね。わたしべつになにもつけてないんだけどなあ」
「なんだろーな。なんか甘ったるくて、とろんとして、女らしいにおいなんだけどな」
そうねえと呟いたしのぶは箸をつけていた卵焼きを、口の前にもっていったまま、停止した。え、なんだ?おれ妙なこと言ったか?しのぶはしばらく止まったあと、卵焼きを弁当のなかに戻した。
「お、おいどした?」
「っ、や、だいじょうぶ、ちょっと急におなかにきて」
「なんだ?病気か?」
「ちがうの、きょう、女の子の、日だから」
力なくしのぶが笑いかけながら、小さくおれだけに聞こえるように呟いた。おれは頭に疑問符がぽんと浮かぶ。
「おんなのこのひって、なんだ?」
しのぶは、一瞬固まって、俺をなにか信じられないものといったような目でみた。なにか変なことを言っただろうかと不安になる。するとしのぶはくすりと笑った。さっきから見せる少女のような笑いじゃあなくって、それはなんだか、ひどく女で、おれはどきりとする。女とはほんとうに色々な顔をもっているもんだなあ。
「竜之介くんは、知らないのね」
しのぶはなんだか、嬉しそうにつぶやいた。
そうだ。おれはまだなにも知らなくて、女になりたいことを渇望しているけれどどうしてもそれに近づくことができなくて、そうして憧れる。そのスカートだとか匂いだとか、振る舞いに。女の子の日、が結局なんなのかおれにはわからなくて、でもただなんとなく、その日だけはしのぶからいい匂いがすることはわかった。そうしてその日はひどく、しのぶを女にすることも。
おれにもいつかそんな女の子の日がくるのだろうか?そうしたら少しは憧れに近づくんだろうか?知らないのね、と笑った、すごく遠くのところにいる、しのぶにおいつくのだろうか。いいにおいも、すこしはするのだろうか。
翌日に訪れることになる人生初めての痛みを、おれはまだ知らない。