【同人誌】落としたリングをもう一度【サンプル】
まだ多くの生徒が登校するには早い時間だ。部活動の朝練でもない限り、今の時間にこの道を歩く生徒は、まずいない。
声をかけても、不自然じゃない。けれど、何となく躊躇ってしまう。意識し過ぎているとは思う。
(教師が生徒に声をかけるのは、普通のことだろ)
と考えるものの、さて、数メートル先を進む人間を、どう呼び止めたものか。いや、呼び止めるほどの用事もない。
けれど、彼女よりも背が高く足の長い彼は、その距離を縮めている。労せず、彼女に追いつく。
やはり、声をかけるか。そうでないと、今度は逆にもっと不自然だ。
片手を上げて、口を開いた瞬間、恐ろしくタイミングのいいことに、彼女の方がふと立ち止まり、振り返った。上げた手の指先が、姿勢悪く折れ曲がる。
「やっぱり、金澤先生」
彼女は――日野香穂子は、笑顔だ。
中途半端に持ち上がった手が、行き場を失ったような気がする。
「よ、お早うさん」
言いながら、ぎこちなくならぬよう、ゆっくり手を下ろす。日野がそれを気にした様子はない。
「お早うございます」
そのまま、日野は当たり前のように、彼の隣に沿うように歩き始めた。そうなると、金澤もまた、その歩調に合わせて歩くようになる。一人で歩くときとは違うスピード。
そういうものだったよな、と今さら振り返る。
***********(中略)**************************
音楽が聞こえる。ヴァイオリンの演奏だ。もちろん、日野が弾いている。どこにいるかは、そのお陰で大体分かった。音色に導かれ、金澤は向かう。
ひどい演奏だったと、吉羅が言っていたことを思い出す。確かに、どことなく違和感のある音楽だ。彼女らしい演奏じゃない。下手と言うより、荒れている感じ。
(何か、怒ってるんだよなあ?)
彼女は一体、あのとき、何を怒ったのか。金澤に対して、だということは分かっているが、理由が不明なままだ。
金澤の足取りは、屋上へ向かう。あそこは、比較的人が少ない。三年生は卒業しているから、生徒の数はぐっと減っている時期でもあるし、桜が咲くにはまだ少し早く――あと一週間もすれば開花宣言だろうが――、話をするにはちょうどよい場所だ。
屋上への階段を上がるのは、三十路を越して数年経った自分には、少々辛い。けれど、この先にある鉄の扉の向こうから響くヴァイオリンの音が、徐々に大きくなってきた。それに、どうにか励まされる。
(でも、荒いなあ)
これは、日野の音色だ。しかしながら、本来の彼女の演奏とは言い難い。
やがて目の前に迫った扉を開けて、屋上に出る。音色はすぐ頭上から落ちてきた。
(今日は、この上で弾いてるのか)
階段のある塔屋の上にも、すぐ右手から階段が通じている。あそこまで上がる生徒は、さらに少ない。大抵は、ベンチのある、下のエリアにいるものだ。
ヴァイオリンで奏でられる曲は、モンティのチャルダッシュ、技巧の必要な選曲だ。見ているこちらまで指を攣りそうな気分になるし、情熱的に歌い上げる部分もあるし。
階段を踏みしめていくうち、彼の足音か気配に気づいたようで、音楽が途切れてしまった。手摺りが途切れ、最後の一歩を上がって振り向くと、日野は一人でヴァイオリンを持ったまま立っていて、こちらを見ていた。
少し眉を顰めて、どことなく怒ったような戸惑うような顔を見せている。
「昼休みも熱心だな」
努めて、笑いながら声をかけると、はい、と素っ気ない声だけが返ってきた。
いっそのこと、彼女の気分がだだ漏れで分かりやすくて、苦笑しそうだ。
「少し話したいことがあるんだが、いいか?」
躊躇するような気配もあったが、日野はどうにか薄く頷いて見せた。
塔屋の奥の方へ向かう。この下にも二人か三人か、生徒がいるようで、声がしている。彼らに、こちらの会話を聞かれたくない。
「お前さん、俺に対して怒っているだろう?」
「……怒ってません」
少し間があった。否定しても、もはやそれは肯定みたいなものだ。
「昨日、帰りに会っただろう? お前さんはこっちを少しも見なかったけどさ」
「…………」
彼女は下を向いた。目線を落として、黙る。
***********(後略)**************************
作品名:【同人誌】落としたリングをもう一度【サンプル】 作家名:川村菜桜