夜明け鴉が唖唖と啼く
もうひとつ医学生をこき使うという手もあるが、こんな辺鄙なところに研修になど訪れてくれるはずもなかった。二三度母校に手紙を遣ったが、返事は一通も来ない。それにそもそも診療に訪れる患者が皆健康であるから勉強にならない。死んでいく者は運命のようにこの漁村で死んでゆく。例え何かの病にかかっても彼らには金がなく、私には十分な薬品も技術もなかった。
至って暇な毎日の殆どを、私は空想に過ごす。子供のころ見た、帝都や大阪の見世物小屋の様な、想像をかき立て、医師の興味をかき立てる患者を想像するのだ。鴎外老が留学していた時期に英国で発見されたエレファント・マンに分類される患者や、見世物小屋の周りに貼ってあった引き札や看板、美しい碁盤娘、瞽女の三味線など、様々なことに思いをはせる。最近は条例ができて彼らを直接目にする機会はとんとない。
女子供に嫌われ、人格を疑われるこの悪趣味は、子供のころから未だ治っていない。そしてその延長線上に、ギンコがいる。蟲師という職業につく、前世代の遺物の様な彼の存在を、私はとても好ましく思っていた。正常な意味ではなく、彼がどうなっているのか(血肉はどう形成されているのか)、そんな観点からが殆どの親愛だ。ギンコが来る日を待ちわびる。友人でもある彼が早く来ないものかと、女を待つようにそわそわする。緑の器ややわらかい角、そして今までに彼が持ち込んだものを日がな眺める。そしてその病的に白い指を、唇を、背中を思い出す。
ここいらの女は黒く焼け、髪は茶に色が抜けている。彼女らも年頃になれば行商人から買った白粉を塗るが、肌の色を隠せるものはいない。そして嘆く。なぜ画のように白い肌ではないのか、なぜ漁村になど生まれてしまったのか、嫁入り前の女の話題は殆どそれだ。ギンコは不自然なほど白い。それが彼の性質に由来するものなのか、ただ陽にあたっていないだけなのかは知らない。そして私は一日に二度ほど彼の肌を思い出す。あの血管の透けそうな皮膚に舌を這わせたときのことを思い出しながら。私の中の想像のギンコは、やがて瞽女になる。陽を知らぬがゆえに陽の色の肌を持つ彼女になる。われわれは決して眼を開けてみることができない陽の光を注視し、その色を取り込んでしまったような、彼女らになる。しかし彼は盲目ではないし、春琴でもない。私が手を引いてゆかねば食事も排便もできない春琴ではない。彼が私を頼ることはない。けれど私が崇拝するには充分ではないか? 近寄りがたいうつくしさを、彼は持っているではないか。
こつ、こつ、と爪で床を叩く。今日もギンコは来ない。私はやはりまだ、空想の中でしか彼を抱く事しかできない。
鍋で沸かした湯の中に大して美味くもない酒を注いだとっくり二本を入れ、熱燗を拵える。横にしなだれる女一人でもいたら雰囲気は様変わりするのだろうが、矢張り私は一人だ。こんな夜は女でなくても、例えばギンコの言う蟲でもいいから傍に誰かと乞いたくなる。しな垂れかかって来る女が最後に私を丸呑みして食ったとしても、それはそれで美しい。いや、それでは妖怪か。ギンコの妖怪についての解釈はなかなか興味深かったが、如何せん彼は蟲師なので私の夢を壊して終わった。幼い頃心惹かれた妖怪百鬼夜行など、私の憧れであったのに。
両袖をたるませそれを布巾代わりにして、沸騰した湯の中からとっくりをつまみ出す。二本の内一本は縁が欠けている。
「あちち…」
盆の上に半ば投げるように置き、寝間に運ぶ。これだけの量では酔うことはできないだろうが、どうせまだ冷や酒はたんとある。季節に倣って父の真似をしたことが少々気恥ずかしい。よく母があのようにして熱燗の用意をしていた。父は尊大な人間で母を人間として扱うことはなかったが、かといって使用人として扱うというわけでもなかった。婚姻の分からぬところはそれだ。母も同じようなところがあった。知らぬ者同士が子を生しても立場が変わることは結局はないのだろう。
ちびりちびりと猪口から酒を飲む。喉の温かさがきつくなり、やがて胃に達するその快感を何度も味わうことができるのは利点だろう。しかし反対に大きな痛みを喉に与えないこの酒の飲み方に不満も覚える。この様な飲み方は、ある種自虐的なものではないだろうか。ゆるい快楽のみで、人生を食いつないでいるようにも思える。体が悲鳴を上げない程度に求め体をごまかしまるで最上のものを手に入れた気分になっているだけなのではないか。まるで自慰だ。ギンコ、ギンコ、と口が動く。しかし声はかすれて美味く出ず、きっと彼には聞こえやしないだろう。
――今日はこれまで以上にお前を思い出した。あの時のお前の痴態だけでは持たない。
一所にいると蟲を寄せ付けてしまうため彼は一人流れをしている。旅の先々で彼は蟲と関わるという。それは私のあこがれるところの生活であるが、医者である以上彼と共に旅をすることは出来ない。とんだ気まぐれからとは言え、私はもうこの村に馴染んでしまっているのだから。
酒をやりながら彼の事を思い出す。淡白なあの男は抱かれることを何月も忘れていられるのだろうか。抱くと驚くほどなじむ体だが、今の私のようにあの時のことを思い出したりするのだろうか。
「望み薄な気もするが…」
酒臭い息を吐いて、柱にもたれる。次にいつ会えるのか分かりはしないが、定期的にここに訪れるのは確かなことだ。
全く、因果な奴に惚れたものだ。きっとまた会う時には私はあまり嬉しい顔をしないのだろう。そしてギンコもそうであるだろう。それでも会うというのが、きっと私たちということなのだろう。窓から覗く緑を見つめながら、じっとギンコのことを思う。
(全く、まいっちまってるなァ)
しかし別段嫌な気持ちではない。このように待たされるのも、お預けを食らうのも。口が知らず知らずのうちにゆがんだ。今の自分を見せてやりたい。きっと彼は一生見ることが無いのだろうけれど、お前がいないと、私はこんなになってしまうのだから。ため息を吐き、土間へ向かう。
今夜は、あの肌を忘れるには、酔わねばならないようだった。
作品名:夜明け鴉が唖唖と啼く 作家名:時緒