しーっ。
ひしめき合うようにしてプレハブ部室の狭い出口に向かいながら西谷がぼやいた。すかさず田中も同調する。
「なー。ホッとしたら急に腹減ってきたぜ」
「お前部活終わりにはいつでも腹空かしてるだろ」
縁下のツッコミにもけだるく首を振って「いつもより減った」と強調した。
今日は男子バレー部にとって特別な日だ。チームの大事な柱が二人戻ってきた。
その一人である出戻りエース、旭が大きな体で背中を丸めて謝ってくる。
「その……心配かけて悪かったよ」
「ホントですよ!ほら、悪いと思ってるならシャキッと背筋伸ばして!」
小さな西谷の容赦ない平手で旭の背筋が叩きのばされた。
「大きな声で『これからは俺についてこい』でしょ!」
「お、オレについて…きて……ください」
「違う!もう一回!」
みんなに迷惑をかけた手前、と元来の性格上そんなセリフは言えなかった。正直言えば西谷についていきたい。それはとても居心地がいいだろう。でも、このチームのエースは自分なのだ。もう二度と折れるわけにはいかない。
息を深く吸い込んで言い直した。
「みんな、俺についてこいっ!」
一瞬静まり返った部室を不安そうに振り返る。そこにはみんなの温かいまなざしと、親指を立てた田中と、腕を組んで「及第点」という顔をした西谷がいた。
こんな俺でもみんなまた信じてくれるんだと思うと目頭が熱くなる。
旭は一度、部活から逃げた。試合相手の圧倒的な強さの前に、エースとしての自信がぽっきり折れてしまったのだ。説得してくれる仲間にも酷いことを言った。そんないざこざの中で西谷まで部活が出来なくなった時期もある。それを思うとみんなに頭が上がらないし、これからのプレイで返していかなければと強く思うのだ。
自分で今しがた叫んだ言葉を撤回しないためにも決意を新たにする。
そこへ微笑みをたたえた大地が言った。
「よし、それじゃあ今日は旭の奢りだな」
「え、ちょっ」
「旭さんあざーっす!」
「え、俺たちもいいんですか?」
「ごちになります」
「いや、でももう店開いてないんじゃ……」
「坂ノ下の兄ちゃん…」
「鳥養コーチな」
「うかいコーチが店番代わってきたって言ってたから大丈夫ッスよ」
そうとなれば善は急げと財布の中身を数える旭の背中を押して真っ暗な外へと躍り出た。食べ物にありつけるとわかったら足取りも軽くなる。
そうして最後に部室を出た縁下がまだ明るい室内を振り返った。
「大地さんたちはまだ帰らないんですか?」
大地とスガは部室の奥に一組だけ用意してある机セットの横に荷物を置いて腰を下ろしていた。
「ああ、清水がとっててくれた今日の試合の記録確認したら帰るよ」
「それだったら俺たちも……」
「時間も遅いしこれ以上田中を引き留めたら腹ペコで倒れるぞ」
「それじゃ、お先に失礼します」
素直に引き下がって、すでに校門を目指している仲間を追いかけた。西谷と旭の名前がある試合の記録表を見る二人の嬉しそうな顔を見ていたら、急かすのも邪魔をするのも気が引けたからだ。
今年が最後の三年生にとって、旭の帰還は格別なことなんだろう。去年の一時期、練習の厳しさに耐えかねて部活から逃げたことのある縁下は羨ましいような気持になった。
実力のある一年が入部して、抜けていた二人も戻った今、自分がスタメン落ちするのはわかり切っていた。もっと、ずっと頼りにされる存在になりたい。ふらりと部活復帰してうやむやのまま許されるようなちっぽけな存在でなく。
校門から町へ続く坂道の途中にある坂ノ下商店は閉店間際だった。
間際というか、閉店直後にたどり着き、足を延ばしてコンビニに行くか相談していたところへ鳥養コーチが帰ってきたのだ。鳥養コーチは元々坂ノ下商店の身内であり店員だった。そこで下ろしかけたシャッターを開けてもらい、肉まんの在庫を出してもらった。
「それ食ったらさっさと帰って飯食って寝ろよ!」
肉まんと一緒に店から放り出し、すぐにシャッターを閉められた。そうされなくても、みんな肉まん一つぐらい流し込むような速さで食べつくした。食べ盛りの空腹には焼け石に水で、食べたばかりなのに「腹減った」の大合唱だ。
腹の虫に急かされ帰ろうとしたとき、田中がポケットに両手を突っ込んで声をあげた。
「やべっ、携帯忘れた」
「はぁ?どうせ誰もメールとかしてこないんだから明日にしろよ」
「オイオイ、誰かにこっそり俺のメアドを聞き出した女子からメールが来たらどうすんだよ」
「うん。解散」
「ちょ、縁下ぁ!」
閉ざされた商店のシャッターが上がる気配に旭が慌てる。
「ちょ、お前たち静かにしろ!携帯部室にあるんだったら大地に電話してやるから!」
「そういえば遅いッスね」
「ああ、試合記録チェックしてから帰るって言ってたけど」
見上げても部室棟は見えないのだが、なんとなくみんなそろって坂の上の校舎を見上げた。
「……大地もスガもでない」
「じゃあ俺、ひとっ走り行ってくるんで帰っててください」
「そんな焦らなくても女子からのメールはこないだろ」
「ウッセェ、アラームで起きてるからないと困ンだよ!」
「仕方ねえな、付き合ってやるよ」
そうして田中と西谷は今下りた坂を駆け上がった。途中で大地たちとすれ違うこともなく、プレハブ前にたどり着くと、出たときと変わらずバレー部の部屋にだけ明かりが残っていた。まだ大地たちがいる。それにしても、部屋の目の前まで来ても話声ひとつ聞こえないことに少し緊張して、いつもより慎重にドアを開ける。
「お疲れーっす……」
扉の真正面の突き当り、帰り際に見たのと同じ場所でスガが顔を上げた。いつも騒がしいことに定評のある田中も西谷も、何も言えなかった。床に座ったスガの肩で大地が眠っている。二人の前に試合記録らしい紙が、寝落ちした大地の指から落ちて散らばっていたけれど、スガはそれを集めもしないで肩を貸している。
何ともいえない驚きから立ち直って口を開こうとするのを人差し指一本で素早く静止して、片手に持った携帯を振って棚に置き去りにされた田中の携帯を指さした。どうやら旭の電話にメールで返事をしたところだったらしい。
口の形で「おつかれ」と伝えて手を振るスガに、こちらも目顔で挨拶をして頭を下げ、開けたときより慎重に扉を閉めた。階段を降りて土の地面に立つまで忍び足だ。
そこまできてやっと声を発した。西谷が先だった。
「俺ら、邪魔しちまったよな」
「ああ……いや、もう大地さんたちも帰ンねえとダメだろ」
「……じゃあもっかい行ってくるか?」
「ゼッテー無理」
西谷にだって無理だ。何故だかわからないが、とんでもないところへ踏み込んでしまった気がして落ち着かない。部室を離れたあたりで耐えきれなくなって、ソワソワする心を誤魔化すために大きな声を出した。
「アレだよアレ、大地さんも旭さんとノヤっさんのことでホッとしてさ」
「アレだよな!緊張が緩んでドッと疲れが出たとかだよな!」
「そうそう!」
違う。この落ち着かない心の原因はそこじゃない。
薄々分かりかけている何かを無視して坂を下った。