幸せの香り
それは、何処かで嗅いだ事のあるものなのだが、それが何だったのかが思い出せない。
不快感を呼び起こす香りではなく、どこかフワリと気持ちを緩めてくれるものなのだが、はっきりしない事象に私の表情は難いものになっていた様だ。
「どうかした? シャア。眉間に皺、寄ってる。 船酔いでもした? それとも追手の気配でも感じたのか?」
ハンチングで特徴的な髪を隠したアムロが、私の顔を覗き込んできた。
波の残照が瞳に映り込み、キラキラと琥珀を輝かせている。
「いや。そんな深刻なものではない。ただ・・・」
「ただ?」
「気になる事があってね」
「気になる事?」
「ああ。君は、この香りが何なのか知っているかな」
「香り?・・・ああ、この甘いのに同時に蒼い印象を与える香りの事?」
「そうだ。私もどこかで嗅いだ事があると記憶しているのだが、それが何処であったのか、何の香りなのかがはっきりしなくてな。モヤモヤとしてしまっていたのだよ。いらぬ心配をかけてしまったようだな」
「余計な気を使わなくていいって。これは蜜柑の花の香りだよ」
「ミカン?」
「ああ。あなたには『テーブルオレンジ』って言った方が判りやすいかな」
「テーブルオレンジ・・・・・聞いた事はあるが、実物は知らんな」
「この島の山の斜面のほとんどが、その木じゃないかな。今の時期は一斉に花を咲かせているから、潮の香りを上回っているみたいだ。皮が手でむけるし、実はそのまま食べられるからね。楽ちんなんだ」
「君は、食べたことがあるのかね」
「ああ。ミライさんの実家から送って貰ったのをWBの仲間と食べた事がある。で、いつだったか、苗木を鉢植えで送ってきたとかで、ブライトと一緒になって育ててた事があってね。その時に花の香りを嗅いだんだ」
「・・・・オレンジか。だからだったのだな」
「なにが?」
「オレンジの花は、結婚式の花嫁を飾る、幸せを祈る花なのだよ」
「へぇ〜」
「実がたくさん出来るだろう? だから『愛と豊穣』のシンボルとなっているわけだ」
「じゃ、悩みが無事に解消した所で、今日の宿へ行くとしようか?」
言われて初めて、私達二人きりが港の入り口で立ち止まっていた事に気づいた。一緒の船に乗っていた観光客らしき集団は、既に一人の姿も無い。
「すまない。思索に陥ってしまって、君を待たせてしまったな」
「いや。あなたの手助けが出来て嬉しいよ。でもさ、腹が空いてきてるから、宿で荷物を下ろしたら軽食を食べれるところを探したいな」
「任せておきたまえ! 下調べは完璧だ。君の希望の場所へとエスコートして見せるとも!」
「お嬢さんじゃないんだから、エスコートは謹んでご辞退するけどね」
そう言いながら歩き出した彼の肩にひっかけたディパックを後ろから外し、私は二人分の荷物と彼の手を持って予約を入れた宿の送迎車へと向かった。
心を温かくする香りが、何処までも一緒についてくる。
この香りの中で彼を抱いたなら、より幸福感に満たされるだろうと、私は夜の訪れが今から楽しみになった。
2015.05.10