速さの違う秒針
「すぐ着きますよ」
そう言って事務所を出た。
その店は個人経営のファストフード店で野菜中心のサンドイッチが美味しい。
オーナーが農業をやっていて、野菜はほとんど自家栽培なんだとか。ファストフードとしては割高だけど、レストランできっちり食べるよりは安い。ちょっといいものが食べたいときにぴったりだ。
そんな話をしていたら、普段の食事でもお金を惜しまなくて良さそうな人が食いついてきた。
「いいね、そこは近いのかい」
僕らがよく食べているハンバーガーチェーンなんかには興味がなさそうな人だったから、敷居を下げて近い目線まできてくれたようでちょっと嬉しかったんだけど。
「ゲッ」
そんな話題を始めた張本人は飲み会でもないのに上司とランチなんて勘弁しろ、という顔で下手な縁起で携帯を操ってでっちあげの予定を盾にどこかへ行った。どうせ愛人のところだ。昼間っからどうかしている。
見え見えの嘘で退散した部下を引き留めることも問い詰めることもなく、あっさり見送った上司・スティーブンさんは意外と機嫌よく「案内してくれるなら奢るよ」と提案してきた。真面目に生きているといいことがあるのである。
そうして歩いて向かうことになった。出そうと思えばスクーターもあったんだけど、そんな距離でもなかったし、スティーブンさんも一緒に歩いて移動するのを厭わなかった。
「チーズも美味いんすよ。オーナーの農業仲間が牧場やってるらしくて」
「詳しいんだな。店員とよく話すの?」
「店員っていうかオーナーが自分で店に立ってることがあって、すごい話好きのじいちゃんなんですけど」
肩を並べて―というには高低差がありすぎるけど―歩いていると、モデルのような体系の人が颯爽と追い抜いていく。体系ばかりがモデル張りだっただけで、首から上は嘴なんだか触手なんだかわからないものの生えた異界人だったんだけど。
そこでちょっと足元に目を向けた。
「………………」
「どうした、少年」
急に俯いたんでスティーブンさんが足を止めてくれる。先刻の異界人と同じ長い足を。
「もしかして、俺に合わせてくれてました?」
「何を」
「歩く速さを」
ちょっと眉を上げた。やっぱりそうなんだ。見るからにコンパスが違うのにずっと並んで歩いていたんだから、そりゃそうだろうな。
五分も歩いた今頃気づいた。自然とこういうことができる人なんだ。
「それがどうかしたのか」
「えー、どうっていうか……」
気を遣わせて悪いから俺がもっと早く歩きます?歩きづらくないですか?足が長くて羨ましいっす?
色々考えたけれど、どれも違う。ただそのことに気づいたっていうそれだけで先が続かなかった。
「女の人と歩くときとかもこうなんすか?」
こういうのがモテるコツなのかな、是非とも教わりたいな、なんて。結局バカみたいなコメントを選んでしまった。
だけどスティーブンさんは予想外の真顔で斜め上のことを尋ねてきた。
「女の子扱いされてると思ったかい」
「え」
そんなことはこれっぽちも思わなかったけど、言われてみるとそうかもしれない。別の誰かならそうは思わないんだけど、この人は道の車道側を歩くし、歩くのも喋りながらすごく楽に歩ける速度を保っていた。しかもこれから奢ってもらう予定で、女の子だったらかなり大事にされてるみたいだ。誰かが自分を大事にしてくれるって言うのは無条件に嬉しいもんだ。もちろん今回はなりゆきで、ペースを合わせて歩いてくれるのも習い性なのだろうけど。
「別にそうは思わなかったっす」
「そう?それは残念だな」
「え」
話をそこで打ち切ってスティーブンさんが歩きを再開した。でも今度はじわじわと離されていく。それについていこうとすると少し早足気味で、足の動くリズムが合わない分なんとなく心が焦る。これがスティーブンさんのいつもの歩調なんだろう。足の動き自体は急いでいないのに、歩幅が広い。
羨ましいような悔しいような気持で少し先を歩き続ける背広の背中を追った。
交差点に差し掛かってやっと追いついたかと思うと悪戯っぽい目で見下ろして「遅いぞ少年」なんて挑発してくるのでムキになって大股で歩いた。
お蔭で店に着いた頃には無駄に疲れていて、おしゃべりなオーナーに「走ってきたの?」と水を差し出された。
「帰りはどうする?」
口角を釣り上げて言われて「女の子用で」なんて言えるわけがない。というか、自然な歩幅よりも広く、ちょっとだけ早足で歩いていたんじゃないのか。水でのどを潤しながら思い返すとそんな気がしてきた。意外と子供っぽいことをしてくれる。「大丈夫です」と答えてやるつもりで含んだ水を飲みこんだとき、
「……と聞きたいところだけど、帰りはゆっくり歩かせてくれ。急ぎ足じゃ折角二人で出かけているのに何も話せないから」
別に大した話はしてないんだけど、向こうが希望しているのだから意地を張ることもない。
テイクアウト用に包んでもらったサンドイッチを下げて店を出た。
四本の足が歩幅を合わせて十分かけて、騒がしい街を歩いて帰る。