【タグ企画短編】歯型/御子凛
気軽に遊びに来るように言われたって行くわけがない。わざわざ少ないオフの貴重な時間を費やして、遠路はるばる進学予定もない大学の、すごく親しいと思っていたわけでもない先輩のところへ遊びに?何で来ると思うんだ。わけがわからない。
元々理解の及ばない人だった。引っ越し先の住所なんてメールで送ってもよさそうなものを手書きしたのも携帯を引っ越し荷物と一緒に送ってしまったからだ。それを少しも悔やんでなさそうな豪快な笑い混じりに語ってその辺にあったメモ帳を取った。
退寮のその日になって初めてメールもアドレスも知らないことに気づいた。出会ったときからこの日まで狭い寮の中で否応なしに顔を合わせていたから携帯で連絡を取り合う必要がなかった。部活の新旧部長同士だからアドレスぐらい交換していてもよかったのに、周りにいるマメな誰かが代わりに連絡役をしてくれたし、あっちはメールや電話するぐらいなら直接会いに来る。こっちから尋ねることもなかった。
寮からいなくなってしまったら何の言葉を伝えることもできない。そうなってみるともっと感謝を伝えておけばよかったような気がしてくる。現金にもうるさいほどの「松岡!」が聞こえなくなって寂しさなんか感じている。
メモには住所しかなかった。メールアドレスぐらい書いてくれればいいのに。尋ねるにしても事前連絡もできない。文通でもしようってのか。十七、八の男同士で、この携帯全盛の世の中で。小さな端末の中で埋もれていく電子文字じゃなく、読みづらい癖字が詰まった手紙が机の引き出しの中にしまわれるのかと思うとなんだか堪らない。
住所の文字はとめはねが大げさで少し丸いところもあって、堂々としていて右肩下がりだ。顔が浮かぶ字だと思う。
丁寧に観察している途中で紙の上の方にゆるいカーブを描くへこみをみつけた。転々と並ぶ凹凸。
メモ帳を拾ってからペンを探して両手であちこち調べていたときの歯型だ。同室の人の置き土産だってのに両手を開けるために口にくわえて、見つけたボールペンのキャップも口で開けた。信じられないぐらい細かいことを気にしないのだ。唾液がついてなけりゃいいってもんじゃない。
キレイに並ぶ歯の痕から白い前歯が浮かんで反射的にメモ用紙を握りつぶした。
手紙を書くことも住所を尋ねることもない。だけど、しわだらけの紙切れは机の中にしまいこんで捨てることはない。
作品名:【タグ企画短編】歯型/御子凛 作家名:3丁目