「さよなら」
肉食獣みたいな連中の集まりでありながらヘルシーさを求めたのにはわけがある。
それは長らく入院していたレオナルド少年が退院してから初の飲み会だからだ。病院食に馴れた胃に優しくいこうというわけだ。
人使いが荒くて悪いが、退院してすぐに外せない仕事のため、義眼フル稼働で働いてもらっていた。そこへ更に先延ばしに出来ない案件が降ってわいて、終わったのが一昨日。ようやくクラウスが兼ねてより作成していた退院祝いパーティーのチラシに日付を入れることが出来た。
当然ながら、今回は少年だけは完全におごりだ。若干一名がズルいなどと騒ぎ立てたが、幹事である弟弟子が対応したのでこちらは関与していない。
そういった見飽きた喧嘩も、退院してからどこかフワフワした様子の少年は穏やかに楽しそうに眺めていた。
入院の原因となった事件では、元々非戦闘員の彼が孤軍奮闘してくれた。ぼんやりするのも無理はない。それでも仕事ではきちんと役目を果たしてくれている。
飲み会では少年のはす向かいに座って様子を観察した。周りはひと山越えた解放感もあり、酒のペースが早く、普段よりも浮かれて十回は乾杯していた。主にザップとKKが。大抵落ち着ていて飲みすぎることのないツェッドも、いつもは断る兄弟子からの酒も受け取っていた。ザルのチェインは見た目では分からなかったが。
紳士の代名詞であるクラウスは流石に酔っぱらいらしい様子はなかったが機嫌がよく、徐々に潰れていく面々の世話を焼いていた。彼はいいところのお坊ちゃんであり、現在も執事付きで生活しているにもかかわらず、そうやって甲斐甲斐しく人だの植物だのの面倒を見るのが嫌いではないのだ。
賑やでスピード感のある飲み会の席でも主役の少年は穏やかにソーダ水を飲んでいた。時折思い出したように暴れて意味不明の動きを見せるザップの肘だのをかわしながら。ついでに労いの意味らしい肩たたきなどもかわしながら。空ぶったザップの手が卓上のグラスを倒して中身をぶちまけグラスを割り、少年が店員を呼んで片付けた。退院祝いだってのに、病み上がりの人間に何をさせるんだ。
テーブルの片付けが済んで、カクテルでベタベタになった手を洗いに行く少年に合わせて席を立った。
「疲れてないかい」
水だけで手を洗い流しながら鏡越しにこちらを見て、軽く首を傾げた。
「大丈夫っす、つか、そんな長いこと空けてたわけじゃないのに懐かしい気がして」
「みんなもさ。浮かれすぎてるぐらいにね」
「はは。ありがたいんすけど明日大丈夫かなー」
「何事もないことを祈るしかないな」
何でも起きる街で何事もない日なんて一日たりとも存在しない。だけどなるべく穏やかな日だといい。二日酔いでみんなが寝込んでもなんとかなる程度に。
店員から「店の酒が底をつきそうなのでそろそろご遠慮していただきたく……」と言われて退店した。
どこぞの酒豪女子会じゃあるまいし、いくらなんでもそんなに飲みすぎているものかと思ったが、よくよく確認すれば、いつの間にかチェインがとんでもない量のボトルを空けていた。それでもまだ自分の足で平気で帰宅するが、彼女もまた浮かれていたのだ。
クラウスがKKを引き受け、ザップは適当に蹴り出して事務所内の一室に居を構えるツェッドと一緒に事務所に戻ることに決めて店を出た。
「少年も乗ってくだろう。家まで回るよ」
どうも気分の悪そうなツェッドを押し込んだタクシーを親指で示す。切羽詰まった様子はないから、少年のアパートを回ってから事務所に向かっても間に合うだろう。
だけど少年は首を振った。
「遠回りさせるのも悪いんで歩いて帰ります。どうせそんなに遠くもないんで」
「別に遠回りってほどでもないが、大丈夫なのか?」
「はい。危ない道さえ通らなきゃ余裕っすよ」
彼だってこの街に来てずいぶん経つ。そこらへんの感覚は身についている。それでも彼のような普通の人類を丸腰で歩かせるには厄介な街なのだが。
「わかった。何かあったらすぐ連絡してくれ」
「はい、ありがとうございます」
運転手が急かすので、開けっ放しのタクシーの扉に片手をかける。最後に一度少年を振り返った。
「さようなら、スティーブンさん」
丁寧にあいさつして、少年が踵を返した。律儀な子だ。とても普通で、街の外にはたくさん存在するごく普通の円満家庭で大事にされて育ったのがよくわかる。この街では不安なほどに普通の小さいような、大きいような背中。
彼を失っていたかもしれない重大な危機を見過ごした日のことを思い出した。事件の処理に追われ、気がついたら彼はいなくなっていた。この世界には彼だけに見えるものがたくさんある。我々がどんな戦闘力を備えていても、彼にしかわからない、我々にはわからないことが沢山あった。
そして、「神々の義眼保有者を拾った」と聞かされたときに漠然と考えていたよりも、それが恐ろしいことだと思い知らされたのだ。
去りゆく姿に無意識に手を伸ばした。
「やっぱり送るよ。乗りなさい」
「なんすか、もう怪我はよくなってるのに、こんなに甘やかされてていいんすかね」
笑いながら、それでも逆らわずに車に乗り込んだ。車窓に流れていくネオンサインの群れを細めた目で見るともなしに見送りながら。この瞬間にも後ろめたい事情を抱えて見た目を偽装している何かを見破るかもしれない。我々組織にとっては重宝する能力だが、それは彼の幸福ではない。
あんまりに普通で非力な彼には重すぎる力だった。その眼がいつかまた彼をここから連れ去ってしまうかもしれない。そんなことはさせないが。
五分ほどで彼のアパート前に到着し、建物に入るところまで見送った。
「今夜はやけに過保護っすね」
茶化しながら、やっぱり少し疲れが見えた。自分の部屋に入ったらすぐに寝てしまえばいい。アパートの入口に片足を踏み込んで、少年は振り返る。
「じゃ、また明日」
「ああ、おやすみ、レオナルド」
薄暗いアパートの階段に彼が消え、タクシーはゆっくり走り出した。