後悔してない、に嘘はない
ガシャン、フェンスに倒れ込むようによさりかかり、眉間にシワを寄せる。
団扇で仰ぐものの、身体に纏わりつくのはじめったい雨水混じりの風。
じめったいのは、風なのかはたまた夏の終わりの豪雨のせいなのか、それとも…
晴れることのない、終わった夏への何とも言えない気持ちのせいなのか。
「やりきったっつったけどよ、後悔はねぇと言った言葉に嘘はねぇけど、やっぱ…」
見たかったよ、福ちゃんのゴールの姿を。
夏の終わり、今でも瞳を閉じると鮮明に思い出す。真夏の太陽の照り、投げかけられる声援、車輪がアスファルトを削るような、あの音。
まるで自分がヒーローになったかのような、インターハイの最高の舞台で先頭を走るあの、心の底から湧き上がる高揚。
忘れる事なんて、できねぇよ
握りしめた掌の中でペットボトルがメキッ、姿を変える。中身を一気に飲み干し、喉を勢い良く通った炭酸でむせかえりそうになり、ゴホ、と小さく咳をした。
なにやってんだろ、俺。
「ここにいたか、荒北」
ガタガタと立てつけの悪くなった扉を無理やり開けた先に、黄色の髪が揺れるのを見えた。
「なにやってる、濡れるぞ」
軒下と言えど、跳ねかえる雨水。裾はすでに色が変わるほどだった。
「別になんもやってないよ、福ちゃん」
っつーより、なんもやることがねぇんだよ、福ちゃん。
後に続く言葉は声に出すのも寂しくて、口のなかで呟くだけだった。
毎日、毎日だ。
ペダルを回し続けてたんだ。誰が知らなくても、お前は知っててくれたんだろ福ちゃん。
よくやったって言ってくれたけどよ、あのときは俺も全てを尽くしたと思ったけどよ。
やっぱ後から考えちまうんだ、
あのとき、あのとき、ってさ。
「荒北―」
「…は?」
雨の音でかき消された言葉、微かにだけど俺の耳に届いた。
なにいってんだ、福ちゃん。
「お前がいなきゃ、1日目俺は例え同率だとしても1位になれなかった」
空気が動く。1歩ずつ近づいてくる気配を感じる。足音がするとかじゃなく、動いてるんだ空気が。俺の尊敬してやまないやつの気配。
「お前がいなきゃ、2日目新開は俺をひけるまでには回復しなかっただろう」
そんなの、俺がいなかったら誰かが引いてたろ。気休めにしかならねぇよ。
唇を噛み締めた俺の頬に、雨の滴が伝わる。優しい指先にその雫を拭われ、頬が震え、瞳の端が熱くなる。
やめてくれよ、福ちゃん、何言っても全部今さらなんだ。
慰めはいらねんだ。
「お前がいなきゃ、三日目、真波を俺の所まで運ぶ奴がいなかった」
だから…
指先が、頬から顎にずれ、突然ぐっと持ち上げられた。そらしていた視線を半ば強引に合わせられると耐えきれなくなった涙が、ポロリと落ちる。
全て見透かすような瞳、未来まで見えてるのかと疑う時もあるその瞳から、もう逃げられない事を悟る。
「真波が来なかったら最後、戦う事も出来なかった。真波を運んだその足で、ちぎれるまでペダルを踏んだお前がいなきゃ、ゴール前にも絡めなかった」
俺の知ってる福ちゃんはそんなこと言わねぇよ。誰がいなくても、福ちゃんはきっと追いつく。俺の知ってる福ちゃんは、一人でもつえーんだよ。
慰め、同情、後悔以外の良く分からない感情、心の中でグルグルと渦を巻く。
あのときと同じだ。やることなくて周りのせいにしてきた、福ちゃんに会う前の、あのとき。
「だけどよ!ふくちゃぁん、ちげぇだろ、ちげぇだろ!」
本音と裏腹な言葉で慰められるほど手懐けられちゃねんだよ。
苛立ちが何よりも勝って、気付いた時には福ちゃんに掴みかかっていた。
白いシャツは雨水を吸い、湿っていて、俺に差し出された手がフェンスへと叩きつけられた。
傘が宙を舞い…ゆっくりと、水溜りに沈む。
ほんの一瞬の出来事、でも永遠に続くかのような沈黙が流れた。
「…ちげぇだろ、そんなこと思っちゃいねぇだろぉ」
絞り出す様に、それだけを吐き捨てた。それしか、言えなかった。
自分の不甲斐なさ、やりきったと言ったにも関わらず、女々しくも何度も思い出しては後悔も思い出す。
「お前は、何がそんなに不満なんだ」
ガシャンッ
突然、大きな掌が背中にまわされ、優しく引き寄せられた。バランスを崩し福ちゃんに覆いかぶさるように、二人でフェンスに倒れ込む。
驚いて顔をあげようとすると、更にキツク、抱きしめられる。「福ちゃ…」
「靖友」
名前を呼ばれ、心臓が高鳴ったのを感じた。両手で頬を包まれ、真っ直ぐな瞳が俺を映す。
情けない、ずぶぬれの、やさぐれた、狼。
「あれがベストだった、そうするしかなかった。やりきった、靖友、お前はベストを尽くしたんだ。そして…俺たちは負けた」
「俺は真波のせいにした」
悔しさではち切れそうだったあの胸の中の渦を、あいつの甘さのせいにして逃げたんだ。
福ちゃんは一瞬驚いたように瞳を見開いた。そして、優しい光を浮かばせた。
全てが繋がったとでも言いたそうな、そんな優しい瞳。
「真波が甘かったといった言葉に嘘はねぇ、だがな甘かったのは真波だけじゃねぇ」
でも、でも
「羨ましかったんだよ、あいつが最初のインターハイだから」
瞳から次々と流れる涙が、福ちゃんの手を伝い、アスファルトへ落ちていく。
拭っても、拭っても壊れたおもちゃのようにただただ零れ続ける。
「俺にとっちゃぁ、最初で最後のインターハイだっ…」
福ちゃんの唇が、俺の唇を塞いだ。
涙で視界がぼやける。言葉が遮られ、嗚咽だけが聞こえる。
「靖友、すまん」
おめぇが謝るのはお門違いなんだよ、福ちゃん。誰も悪くないだろ、だけどさ、だけどさ。
「福ちゃんがゴールすんのがみたかったんだよ」
震える両手を、大きな背中に回し、ぎゅっと力を入れる。
「すまん、靖友、すまん」
何度もその言葉を俺の耳元に零す。やめてくれ、福ちゃん、余計涙がとまんねんだよ。
もう一度、俺の唇に自分の唇を重ね、立ちあがった。
「風邪ひくから、戻るぞ」
いつもと変わらぬその鉄仮面で俺の腕を引っ張り立ちあがらせた。
「福ちゃん、俺こそ。福ちゃんゴールにつれてってやれなくて、わりぃな」
眉間に力を込め、目をやると見た事のない優しい瞳で俺を映し大きな掌でくしゃ、と髪を撫でた。
「何もやる事がないなら、何かやる事を作ればいいだけだ」
唇の端で笑顔を作る、いつもの不器用な福ちゃんの笑顔に渦巻いてたもんが少し、なかなった気がする。
「例えば、なによ」
「…受験生だし、勉強だ」
たとえいつか、このインターハイのことを、暑く熱い高校三年の夏の思い出話として笑い合えるようになるその頃にも、隣にはおめぇに居て欲しいと、俺は思ってんだ。
「荒北、ありがとう」
「…は?」
雨の音でかき消されたその言葉、微かにだけど、俺の耳に届いた。
お前に礼は似合わないんだよ、鉄仮面。
いつも通り偉そうに無理なオーダーしてろよ。
作品名:後悔してない、に嘘はない 作家名:すずた