~一日目夜
散らかった薄暗い部屋にはいつも先に来て敬の使うパソコンも起動しておいてくれる親友の姿はない。
「そういえば今日からだっけ」
“あの話”が舞い込んでからの親友はずっと落ち着かない様子で「どうしよう」を繰り返していた。
着ていく服や泊まり荷物の準備のことに始まり、手土産をどうするだの緊張してヘマをしないかだの。
よくもまあ、と呆れる程心配のタネを次から次へと口にする。
毎日そんな調子なので日々のメリハリがなく、今日が出発の日ということも忘れていた。
自分でパソコンの電源スイッチを押し、窓を開けた。
今日も空は青く、強い日差しが地面を焼く。
眩しい外の景色を眺めて室内を振り返れば昨日よりも暗い部屋にパソコンの起動音だけが響いていた。
去年はプールと買い物に行った。
それから何枚もDVDを借りて映画を見たり、何度か短日のバイトもした。
思いつく端から予定に追加し親友、小磯健二を連れ回した。
人づきあいは得意でないからと気乗りしない様子でも強引に誘って他のクラスメイトが計画していたバーベキューにも連れて行ったし、親しい友人がいるわけでもない運動部の試合も見に行った。
夏休みとは思えないほどに連日顔を合わせた。
放っておけなかったのだ。
健二とは高校に入学してすぐ同じクラスになり、最初の席替えで隣の席になってから親しくするようになった。
要領は悪いし目立たないが、数学だけは恐ろしくできるしそれ以外はからっきし。
付き合ってみると面白いけれども内向的であまり友達は多くない。
そんな友人に高校初めての夏休みの予定を訪ねたら、彼はあっさり言った。
「ないよ」
その時初めて聞いたことだが、健二の家は両親とも忙しく親戚付き合いもないため、訪ねていく先もなければ訪ねてくる者もいない。
健二自身、敬以上に仲の良い友人もいないので夏休みのイベントというものが何もなかった。
その事情を語る表情が寂しげに見え、ついつい誘ってしまったのだ。
「じゃあさ、柴山達がバーベキューやるの、一緒に行こうぜ」
自分だって参加するつもりではなかったのに。
今年の夏は物理部の先輩のツテでOZのメンテナンスのバイトにありつき、去年のように頭をひねる必要もなくなった。
バイトが休みの日にはまた遊びに連れだそうと思い、その内容を考えていた矢先。
二人きりの部室の扉を開けて飛び込んできたのは健二の憧れの人、篠原夏希だった。
「バイトしない?」
健二はその内容も聞かずに飛び付いた。
今まさに、敬と別のバイトをしているというのに。
それが少しばかり癪で一度は止めたが、バイトというのが「夏希と旅行」という、健二にとっては誰にも譲りたくない仕事と知って送り出してやることを決めた。
OZのバイトは元々敬一人が引き受けていたもので、数学オリンピックの代表選に敗退したことによって暇のできた健二を巻き込んだだけだった。
数日間健二がいなかったとしても何とでもなる。
限定一名という夏希の目の前で彼女のバイトを巡ってじゃんけんをした。
敬はチョキを出した。
健二の、ここぞという時にはグーを出す癖を知っていたからだ。
その日の昼間は休憩のたびに携帯を見た。
何か困りごとが出来た健二からメールが入っているのではないか。
しかし、見なくても分かっていた。
マナーモードにしているわけでもないのに受信音が鳴ることはなかったし、ずっと夏希と一緒にいるのだろうから携帯によそ見している暇もないだろう。
そうやって来ない連絡を待ち、確認するごとに「面白くない」気持ちが積もっていく。
送りだしたのは自分なのに勝手なことだ。
結局、夜になっても音沙汰がないのでしびれを切らしてメールを送った。
イライラなど欠片も見せず冷やかすような一行メールだった。
すると、送って数分で着信音が鳴った。
一度ベッドへ投げた携帯に飛びついて画面を確認すると、見慣れた丸耳のアバタが表示されている。
受話ボタンを押して端末から沈んだ声が聞こえ、胸に溜まった澱がほんの少し溶けて消えた。
健二は賑やかな夏希の親戚一同に囲まれ、彼女の恋人という嘘に付き合わされてすっかり困り果てていた。
二人きりで旅行なんて、何か面倒事が潜んでいるに決まっている。
しかし、もてなしてくれる人たちに嘘をつくだなんて健二にとってはさぞ心苦しいことだろう。
敬ならばいくらでも相槌を打って話を合わせて数日間ぐらい誤魔化し通せるし、自分が好きこのんでつく嘘ではないのだから深く気に病んだりしない。
でも、健二はじきにバレてしまうだろう。
彼の泣き言を軽く励まし、無責任に笑ってこう締めくくった。
「せいぜい頑張れよ」
通話を終え、数秒でバックライトが消えて暗くなった画面に自分の顔が映る。
「何が“がんばれ”だよ」
そして再び布団に端末を投げたのだった。