ハナサナイ。
『痛くなったら教えてあげるよ』
あの日同じ場所から流れた血。
苦痛を味わうことはできなくとも、確かにつながっていた。
あたしのすべては、コウヤのものだったから。
『痛くなったら……』
痛くなっても、言えなかった。
あたしだけ、違うものになってしまった。
人混みを歩く。
はしゃいで道の真ん中を堂々と大股で歩いてしまうヤマトに対し、人波に流されるようにして静かに歩くコウヤの足は少し遅い。
立ち止まって振り返り、ヤマトは呆れたように言う。
「コウヤ遅いぞォ!」
「ごめん」
すんなりと謝るものの、速度は改善されない。追いつこうと走ることもしない。相変わらず川を流れる小石のようにうつむき加減にトボトボと歩く。
いかにも今時のギャル然としたヤマトと、真面目でさえなく見えるコウヤが連れだとはなかなか周囲に理解されない。
人々は平然とふたりの間に割り込み、その距離を離れさせることに加勢している。
「仕方ないなァ」
ささっと戻ってきたヤマトはぼやきながらも嬉しげにコウヤの手を握った。
「ほら、コウヤ、行こっ」
カァッと顔を赤らめながらも、コウヤは困惑したふうに目を泳がせた。
「ヤマト。人がいる……」
「別にいーじゃん。気にすんなって」
「でも……っ」
「手ェつないでる女の子たちなんてそこら中にいるでしょーが。コウヤ心配しすぎ。それに……別にそう見られたら見られたでいいじゃん?」
にこっと笑い、コウヤの顔を覗きこむ。
「あたし嬉しーよ。コウヤがあたしのものだって思われるのが」
「……バカ……」
ぽつりと出たかすれた声、言葉は雑踏に消える。
少し先の信号が変わり、音楽が流れ出した。握ったコウヤの手を引っ張り、不意にヤマトは走り出す。人混みをすり抜け、信号へ向かって。
一緒に走りながら、コウヤはつながれたヤマトの手に視線を落とす。
温かいと思わない。
痛いとも思わない。
つないだ手は、温かいはずなのに。
引っ張られる腕は、痛いはずなのに。
それがどういうことかさえ、自分にはわからない。
「ラッキィー! 渡れてよかったーっ」
青空に『ばんざーい!』をするヤマトの拳が突き上げられる。
身を折り曲げて膝に手を当て、肩で大きく息をするコウヤは、切れ切れに言う。
「そ……んな無理して渡らなくて……いいのに……っ」
「あっは、ごめんごめん! だってなんか得した感じしない? 待つの嫌じゃない?」
「嫌……だけど……」
自分は走るほうが嫌だ、と、口の中でつぶやく。
「ここの信号長いしさー。おつかれ! さっ、行こ」
ヤマトは再びコウヤの手を握った。つっとすべる手に、コウヤは視線を落とす。
「ヤマト……汗、かいてない? 水が……」
「ん? ああ。かいてるよ。あっちー」
顔をしかめてぼやき、『てゆーか服着すぎー!』とコートの前を開き、パタパタとはたく。そんなヤマトをコウヤは何かをこらえるように口をへの字に曲げて見つめる。
その視線に気付いたヤマトは、下から覗きこむようにしてコウヤの顔を窺った。首を傾げて、真剣に訊ねる。
「……ごめん。気持ち悪い?」
コウヤがカッとして、叫んだ。
「まさか! なんでそういうこというの。ヤマトが気持ち悪いなんてあるわけない!」
「ありがと」
瞬時の答えは偽らない証拠だ。
「へへーっ」
嬉しそうに顔をほころばせ、ヤマトは己の汗ですべってしまうコウヤの手をきゅっと握り、歩き出す。
コウヤは何も言わず、引かれるままに歩き出す。ヤマトの隣を、ヤマトの横顔を眺めながら。
「ヤマト……」
不意にコウヤは握られた手に力をこめて握り返す。強く強く握りしめる。そうして驚くヤマトに訊ねる。
「どんな感じ?」
「ん? ……コウヤを強く感じる」
「……そう」
コウヤの顔に小さな笑みが浮かんだ。口元を中心に、それはじわじわと広がっていく。
「それは、嬉しいな……」
「そのうち戻るかもよ」
ヤマトはさらりと言う。
「あたしら不完全だったんじゃん? 最初だしィ」
「不完全、……か」
コウヤは手を緩める。
いつのまにかふたりの足は人波の速さと並んでいた。
うつむく顔。口元の微笑み。
「だったらいいな……」
「んー」
ヤマトの全面賛成とも言いかねる相槌に、コウヤは首を傾げる。
「痛い?」
「ってゆーか、暑いとか寒いとか面倒」
ヤマトはなんでもないように言った後、少し眉をひそめて顔をしかめる。
「あー……ただ、アレのときがちょっとつらいかな」
「え? あれって? ……ああ」
ヤマトが『アレ』で済ませたもの。
不思議そうに訊ねたコウヤがハッとして、しかし言わないまま黙る。
気まずそうにそっぽを向くコウヤにヤマトは笑い、はずんだ声で言った。
「だから子供はコウヤが産んでねっ」
「バッ……カ言ってぇ……」
苦々しげとも言えるほど顔をしかめて額を押さえるコウヤ。
楽しげに笑うヤマト。
過ぎていく、ふたり以外の人たち。
止まっていた足。
つながれたままの手。
ふたりの間に、静寂が訪れる。
「……コウヤは、つらい思いしなくていいんじゃん? ってゆーかしてほしくないし」
「わたしも、ヤマトがつらいの、嫌だよ」
集中がとぎれるように、戻り押し寄せる街中の音。
「教えて」
ヤマトの顔がハッと強張る。
ぽつりと出た、コウヤの言葉。雑踏に混じって聞き取りにくい、か細い声。けれどもヤマトの耳が確かに捉えた、一番怖い言葉。
秘密がバレたときのような、鋭い痛み。胸の鼓動が早く、高くなる。
「教えて」
ヤマトを横目で見つめて、コウヤはささやく。
「……くれなくてもいい」
そっと包みこむように握り返された手。
ヤマトの顔が歪む。
泣きそうに。
「ヤマトが痛いと思うだけで、わたしも痛いよ。だから」
低く、低く、抑えた声。抑えた感情。抑えきれない感情。
コウヤの、ヤマトの、強く強く握られる手。
「そんなの、別にどうだっていい」
怒っているようにさえ見える、意志の強い目。
一片の嘘もないコウヤの言葉。
「超えてみせるよ」
鋭く言い放つ。
まるで挑むように勇ましく。
ヤマトは素早くコウヤの頬に唇をつけた。
「……ッヤマト!」
顔を赤くしてバッと飛びのくコウヤ。
「だって、コウヤそんな可愛いこと言うんだもん。嬉しくて」
「……」
「……嬉しくて」
無言でヤマトをにらむコウヤ。
負けずに言い、上目遣いにコウヤを見て、にっこり笑うヤマト。
「ごちそうさま!」
ハッとしたコウヤは大慌てで一度離れたヤマトの手を取った。
感じる周囲の視線が痛い。
コウヤはヤマトの手を引っ張って走り出した。
「行こう!」
「うん、行こう行こう!」
ふたり手を取り合って猛ダッシュ。
おかしそうに笑うヤマトにつられたようにプッとふき出すコウヤ。
楽しそうな、そして心の底から嬉しそうな、ふたりの笑い声が街に響いた。
(おしまい)