その日。
思えば朝からついてない。
冷凍庫の氷は切れてるし、歯ブラシは何処か隙間に落としたのか見当たらないし。
…おまけに、気分を落ち着けようと窓を開けたベランダからは、偶然か必然か分かりたくもないが
ノミ蟲がニタニタ笑いながらこちらに手を振るのが見えた。
思わず手近にあった隣近所の鉢植えや物干し竿を手当たり次第投げ付けたが、それもかわされる。
唯一、カンと小さな音をたててビールの空缶があたったが、そんなもんじゃ気分は晴れなかった。
そこから8時間後、事務所で何やら書類に目を通すトムさんを待っている。
仕事は既に、今日予定されていた徴収を終え、あとは帰宅するだけだ。
「静雄、待ってなくていいぞ、もうちょいかかるし。腹減ったろ?」
俺に気付いてトムさんが手をふる、帰っとけと。優しく。優しく。
でも目は書類を見ているままで。
せめて視線だけでも向けてくれていたなら、満足しておとなしく帰ったかもしれないのに。
うまく行かないイライラが募って、気やすい証拠の身振りがぞんざいな扱いに見えた。
隠そうとすれば、いやに甘ったるい拗ねた声が出る。
「別にいっスよ、俺が待ってたいだけです」
「……じゃー帰るか!ほら急げ、事務所鍵閉めちまうぞー」
帰るだけですか。一昨日みたいに誘ってくれればいいのに。飲みに行くか?って。
拗ねたままのろのろと立ち上がりかければ、鼻の先にトムさんの顔があった。
「あのな、帰るは帰るでさみしいって。静雄お前どーしたいの?」
「ぅ、わ違いますよ!飲みに行きたいだけです俺は!」
ぽりぽり、と頬を掻くトムさんと、沈黙。
「まぁ…寂しいわけだよな?」
コンクリで固定できるだろうか俺の体。
東京湾は埋め立て禁止だろうか。
とどのつまり、穴があれば入りたい。
「一昨日は静雄ん家で飲んでたなー、したら今日はうち来るか」
図々しかった、絶対トムさん呆れたろーな。
でも。
「……行きます」
「ホームだと暴れても安心だとか思ってるだろ、だから今日は我慢のれんしゅー。
そういうわけで俺ん家な」
「ぇ…昨日俺、暴れました?」
血の気がひく。朝起きたら部屋は片付いてたしむしろきれいに…
「おー、もういいです一緒に暮らします日用品は用意してあるんです、ってバカデカイ鞄抱えて、
酔っ払った大告白イタダキマシタ」
覚えてなくても心当たりならある。
製氷器に1粒もなかった氷、消えた歯ブラシ、ベランダの空き缶…
「ゎ スれて下サい帰ります俺帰ります…!!」
トムさんとひとつ屋根の下の想像だとか突っ込みどころはそこじゃねぇだとか、
恥ずかしくて頭の螺旋がポロポロと外れていって、何が何だか分からない。
「帰ってもいいけどな別に。ただトムさんが来てほしいって言ってるだけで」
ずるい。
ずるい。
足がとまる。
「…行きます」
―完―
その鞄だけどな、俺の家にあるんだわ。
何でですか持ってったんスか!?
そぉ。悪くなくないか?
…な、なくない、って…反対の反対、ですか?
そー、二重否定。昔教えたろーよ。