嵌るまでの話
「どうしたの?」
「どっどうもしません」
「いや。その反応は誰が見ても、なんかあったんだなって感じると思うよ」
言いながらベッドの方へと近づいていったところで、視界の端に映ったサイドテーブルに微かな違和感。正体は一瞬で判明。いつも両手の人差し指に嵌めている銀の指輪。浴室に向かう前に外したそれが一つしかないのだ。その事実と帝人の反応から推測して、臨也は目を細めて笑った。
「帝人君」
「……なんですか」
どこかふてくされたような表情で目線を合わさない帝人。頬と耳たぶが赤くなっているのが薄暗い部屋の中でもよく見えた。
「手、出して?」
表情筋の動きを意識して笑顔を作る。笑うという行為一つにだって様々な種類があるがその中でも、彼が一番好んでいるであろう笑顔を。
「帝人君」
効果は覿面。ぼんやりと魅入られたように、瞬きする間すら惜しんでいるかのように帝人は臨也の作られた笑みだけを見つめている。
「隙だらけですよ太郎さんっ」
「っ、わああっ!?」
掛け布団の中から引っ張り出した帝人の両手、左手の人差し指には鈍く光る銀色の輪。予想通りの展開ではあるがつまらなくはない。自然と笑い声が漏れる。表情も勝手に崩れたから今どんな顔をしているのか自分でも解らない。ただ、悪い気分ではなかった。
「案外可愛いことをするんだね。薬指に嵌めてみても良かったんだよ? ああそれとも俺とお揃いにしたかったの? それはそれでまた可愛らしいね帝人君」
顔を真っ赤に染めて俯いている帝人に見せ付けるように、握り込んだ左手を彼の視界に入る位置へと持っていく。そうしていつも通りの軽い調子で言葉を紡ぐ。
「帝人君、なんか言ってよ。つまらない」
これは事実ではない。彼を観察しているだけでも十分に楽しい。彼の行動の理由を考えるのも楽しい。だからきっと、現在の彼が何か喋ってくれたらもっと楽しくなるのだと思うから、わざと煽るような言葉を選んで臨也は話し続ける。
「いやそれにしてもおっどろいたなあ。素面の君にこんな可愛げがまだあったなんて思ってもみなかったよ帝人君。ねえねえ帝人君。俺の話聞いてる? って、尋ねるまでもないか。帝人君は俺の声好きだもんね。あれ、なに驚いた顔してんの。気づかれてないとでも思ってたのうわ恥ずかしいね馬鹿だね迂闊だね」
あと俺の顔も好きだよねえという呟きはまたいつかのネタにするために飲み込んで、幼い印象を助長している額に唇を押し当てる。微熱っぽい体温が面白くて一度離れてから再び口付けると、ワイシャツを羽織っただけの薄い肩がぎゅっと縮こまった。
「あ、あの」
「んー」
「指輪返しますから、手を離してください」
手慰みに彼の短い髪を撫でつつ、握ったままの彼の手を指先でなぞったり爪を立てたりと好き勝手に遊んでいる臨也と目を合わせないようにしながら帝人が言う。そんな様子が、なんとなくいたいけな気がして、骨ばった手首の内側を軽く引っ掻いてみると子供じみた顔が何かを堪えるように僅かに歪む。
「欲しいならあげるよ」
頭から顎へと手を滑らせ、無理矢理に自分のほうを向かせて目線を合わせる。丸い目を見開いてこちらを見る帝人は、実際の年齢を知ってはいるがそれでも、一回り以上は年下に見える。それ以外は人畜無害を絵に描いたような、平凡な空気を纏わせた少年。一見すると凡庸な彼が育み続けた異常に、最初に気づいたのは臨也だ。
「えっ。あ、悪いですそんな」
「持ち主がいいって言ってんだからいいんじゃない?」
何も変わらない日常を生きる善良なる彼も狂気すら感じる程に非日常への渇望を抱いている彼もどちらも等しく愛している。愛しい愛しい人間の中でもとびきりに愛しているのだと何度も何度も言っているのに帝人はまるで信じない。どこか諦めたような、それでいて嬉しげな、そのくせ怒りを秘めた目で臨也を見る。
「……じゃあ、えっと、貰います。ください」
「うん、いいよ。あげる」
こんな他愛もないことで顔を綻ばせる子供を素直に可愛いと思う。だが、同時に不思議でもある。人外のモノを目の前にして感動に打ち震えながら笑ったこの存在が、こんな些細な行為で幸せそうにしていることが。
「あ。でも、帝人君にはまだちょっと大きいねこれ」
帝人の指とそこに嵌った指輪の間には、手を下げたら指輪は落ちてしまうだろうと予想できる程度の隙間があった。何か、紐かチェーンでも見繕ってやろうかと思ったところで声がかかる。
「いいんです。いつかぴったりになりますから」
臨也さんみたいに。そう言って自分から目を合わせてきた帝人が、また頬を赤く染め照れくさそうに笑う。その笑顔は幼い。ずっと握ったままの彼の手は、意識してみるとどこか頼りない。まだ子供の手だ。
「いつか、ね……」
そのときまで彼は自分の側にいるだろうか、自分は彼を側に置いておくだろうか。考えたところで答えは出ないが、どちらでも構わない。互いの立ち位置がどうなろうと関係なく、彼はきっととてもとても面白い興味深い人間へと進化するだろうから。
「楽しみだなあ」
くっと堪え切れなかった声が零れる。臨也自身、あまり趣味の良くない笑いだなと理解できるそんな笑い声を漏らしたところで、帝人の顔からすうっと子供の笑顔が消えた。手の内にある成長途上の指がほんの少しだけ震えてすぐに治まる。その目は雄弁に彼の感情を物語っている。諦めたような嬉しそうな怒っているような、複雑に渦巻く何かを宿した眼差しで臨也を見据え口を開く。
「楽しみですね」
臨也の手を帝人が握り返す。離れない離さないとでも言いたげに、強く。