落ちる月、
ぷかり。水面に浮いて、仰向け。
ちゃぷちゃぷと耳元で揺らめく水音が、やたらに鼓膜に響く。背中から伝わるゆったりとした、心地良い冷涼感。濡れたシャツが身体に張り付いて煩わしいが、そんなことは大した問題ではなかった。ぼんやりと水にたゆたう。しんとした静けさの中で、俺は、孤独感にも似た、ある種の優越感を感じていた。世界には今だあれも居なくて、ひとりぼっち。痛いほどの静寂は苦痛ではないのだ。手を、伸ばす。黒々とした深い深い闇に、ぽつねんと、けれど煌々と、その身体を横たえている。薄く膜のような輪っかが出来ていて、すこし、星達とは離れたその姿。まるで彼みたいだ。その美しい煌めきも、仄かに纏う孤独感も、すべて。俺は今度は両手を伸ばして、そ、と、それを包むように形作った。おっこちて、こないかなあ。ひとり呟いてみてもそれは、辺りの飄々とした沈黙に、静かに霧散するのみだった。
ただぼうっと眺めるのにも飽き、静かに水中へと潜る。水は宵闇に隠れるかのように色を変え、静かに黒く光る。それに、ちいさな星々の煌めきが反射して、まるで、宇宙を泳ぐかのようなきぶんになった。宇宙を泳ぐ、さかなのような、そんな。冷たい宇宙。その中にずうと浮かぶ孤独を、俺は知らない。今はただ、すこしでもその淋しさや哀しさを呑み込みたくて、宇宙に身体を浸す。届かない痛みを肌で感じては、掴めないけれど手を伸ばす。ず、とマシだ。こうして、同じ空間に身を置けている今は。そう独りごちては、ぐ、と、咽元に込み上げてきた息苦しさを吐き出すために、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと上昇。無音の中をすいすいと泳ぐ感覚は、如何とも表現し難い。ほんとうに、真空。その中を、泳いでいるかのようだ。ちゃぽ、と音を立てて、水の薄い膜から顔を出す。と、空の中でもないのに、一際煌々と。え。つ、き?
なにやってんだ、お前。月が、仏頂面でそう問うた。俺はとゆえば、もうびっくりしてしまって、どうにもこうにもぽかん口を開けてしまっていた。な、んで。忘れもん。は、え?今日水泳の授業あったんだよ。あー、あー、そっかあ。で、お前は何してたんだよ、こんな時間に、こんなとこで。んー。暫し考えを巡らせて、てんたいかんそく。とだけ応えると、やはり彼は、面食らったように変な顔をした。天体、は?てーんーたーいーかーんーそーくー。え、それって水ん中でやるもんなのか?んー、綺麗だよ!はあ?うん、きれいきれい。お前、頭大丈夫か。うんダイジョー、ブっ!なんだか無性にわくわくして、プールの縁に、無用心にも気を抜いて突っ立っていたその腕を、ぐい、とめいっぱい引っ張った。彼が驚いて、更に眼をまんまるうくして、軽く叫ぶが知ったことではない。ざぶんっと勢いよく、彼は水中へ落下した。すると、跳ねる水滴。その一粒一粒が不思議に煌めいて、また、星が増えた。
っにすんだ手前!彼は語気を荒げて、激しい剣幕で轟々と怒る。あはは、シズちゃんたらずぶ濡れー。誰の所為だ、だ、れ、の!水中だとゆう所為で、普段よりも若干動きの遅い彼の手を、ひょいひょいとかわしながら笑う。そのこえは、しんと静かな夜に響き渡った。ばしゃばしゃばしゃ。泳いだり走ったりして、水面を揺らす。月や星達は、それに合わせてゆうらゆうらと揺れては煌めく。その様があんまりにも綺麗で、俺はどうしようもなく可笑しかった。そのうち疲れて彼が止まり、俺ももう好い加減に笑い飽きたので、2人して水面に横たわる。ぷかり。やたらと静かで、すこし不思議だ。ねえ。なんだよ。俺ら今、宇宙に浮いているよ。は、宇宙?そう、宇宙。何言ってんだお前。水にさ、空が反射するじゃない、そうすると泳いでいるときは、すっかり、宇宙に浸るようなきぶんなんだ。あー、お前ってよく、いつも、意味判んねえことばっかし考えているよな。え、そう思わない?思わねえよ。彼はぶっきらぼうにそう応えると、荒々しく水面を波立てて、ざばっと勢い良く、さっさと上がってしまった。
無頓着に力を抜いて、縁に突っ立っている、月。それがあんまりにも背後の空と合わさって、きれいだ。と、思わず吐息が漏れた。なに言ってんだ、ほら。す、と、差し出された手。驚いて見上げると、彼が、何も気にしていない風で、こちらを訝しげに見ていた。なにしてんだよ、早く上がんねえと、夏でも風邪引くぞ。なんだか慌ててしまって、それでも無性に嬉しくて、あ、だとか、う、だとかなんだか呟きながら、そ、と、彼のそれに己のそれを重ねた。途端、ぐい、と、決して丁寧ではなく、力任せ(とは言っても彼はそんなに力を込めてはいないだろうが)に引っ張られる。その拍子に掴まれた手がぎりと痛んだ。俺はあんまりなそれにバランスを崩して、彼にとすっと倒れ込んだ。ふ、と見上げると。あ。つき、だ。
つきが、ようやく、手元まで落っこちてきた。
(俺はそれを、しっかと捕まえて離さないのだ。)