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未来福音 序 / Zero―青読雨読―

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それからというもの、俺は毎日病院に通った。
 平日は工場で働き終えてから、週末は特に行く宛もないので病室に入り浸っていた。
 勿論、水原の介護はきっちりやっている。
 いや、きっちりはできていないかもしれないが。俺なりに努力はしている。
 車椅子の操作はすぐ慣れたし、車椅子とベッドの行き来だってお手の物だ。
 トイレや浴室は流石に抵抗があったが、それも一月すればさほど気にならなくなった。
 問題は体力面だった。いくら水原が華奢だといっても、その体重全てを支えなければならないわけで、その負荷は相当なものだった。
「僕が言えた義理じゃないんだけど、ミツルも大概ひょろひょろだよね」
 自慢じゃないが、引きこもって爆弾をちまちまと作ってきた俺の体は、逞しさとは無縁だった。町工場での労働で少しは体力をつけたつもりだったが、介護はそんなに甘くなかった。寧ろどちらも体力を使うので、疲労は倍増しだった。
 そんな疲労困憊の介護生活の中で、一つわかったことがある。
 それは、ずばり水原真鮎はダメ人間だということだった。
 好きなものを食べたいと言い、医師に隠れて菓子やフルーツを食う。
 食いながら、漫画や小説を読みふけり、ゲームに興じる。
 俺はというと、あの漫画の新刊を買ってこいだの、この新作ゲームを買ってこいだの、随分と良いように使われていた。家電量販店の店頭に並んで手に入れさせられたこともあった。
病院に入院し、闘病生活を送ってはいるものの、これは世に言う引きこもりの生活と大差ないのではないかと思ってしまうのも無理なかった。無論、俺が言えた義理ではないのだが。
 そもそも、水原がなんの病気なのか俺は知らない。水原は何も言わないし、俺もあえて聞こうとは思わなかった。聞いてどうにかなるものでもないし、聞くのが怖いという気持ちも確かにあった。
 ある日、俺は病室に置かれている観葉植物に水をやりながら、漫画を読みふける水原を見ていた。
「あんたさ、いつもそんなことばっかりしてるけど、面白いのか?」
 ただの好奇心から聞きたくなった、というのは嘘だ。病室で病人ができることは限られている。だから、他人の創作物を消費するその行為を、所詮は退屈しのぎなんだろうと思っていた。見下すような物言いになったのはそういうわけだ。
「え、何? ミツルはこういうの面白いと思わないの?」
 水原は心底意外そうな顔をしてそう聞き返した。
「ほとんど触れたことがないってのが本音だが、面白そうだとは思わない。というより、面白くても、作り話だろ?」
 そういうモノに熱中する人間を、どこか馬鹿にしていたのかもしれない。現実から目を逸らすツールに過ぎないと、軽んじていたのかもしれない。そのせいで、少し刺のある口ぶりになったのだが、水原は一切気に止める様子もなく、寧ろ憐れむような目で俺を見た。
「ミツルは一度も物語に救われたことはないの?」
 理解できない言葉だった。
 物語に救われる?
 つまり、物語を創造した誰かに救われる?
 そんなことが―――
「有り得ないって顔だね。でも、間違えちゃだめだよ。君を救うのは君自身だ。救われる時、解はきっと君の中にある。それを照らしてくれるのが、物語なんだ。だから、君は誰かに救われるんじゃない。君が勝手に救われるんだ」
 ―――あるとしたら。
「どう? 素敵だと思わない?」
「―――かもしれないな」
 肯定はできないが、否定もできなかった。
 ふと、ベッドに散乱した書籍の山が、それまでよりも重厚に思えた。とても登れそうにない、堅牢な壁に見えた。
 モヤモヤした思いを抱きながら、それがなんであるかもよくわからない。わだかまりが溶けないまま、散らかった本やゲームソフト、菓子の袋を片付けていると、一冊の本が目に入った。
 作家の名は知っている。昭和を代表する文豪であり、若くして亡くなったその最期は壮絶だったという話も、耳にしたことがある。
 そんな自分の数少ない知識に引っかかったということもあるが、それ以上に随分と読み込まれていることが目を引いた。
「ん? その本、気になる?」
 裏表紙の内容紹介を読んでいると、後ろから水原に声をかけられた。
「いや、随分読み込まれているな、と思って」
「―――うん、そうだね。なんだかんだ、その本は結構読んだかな」
 水原は懐かしむような表情を浮かべてそう言った。
「特別好きってわけじゃないんだ。読み終わった時にすっきりするわけじゃないし。何か大きなドラマが起きるわけじゃない」
 自分が書いた訳でもないのに、なんだかへりくだったように聞こえた。
「ミツルはさ、罪について考えたことはある?」
 罪、と言われて、頭に浮かんだのは、火薬の匂いと、炎と、立ち昇る黒い煙。俺のこれまでと切っても切れないその現象は、それで誰かを傷つけようとした以上、俺の罪だと問われても反論できない。
「さあな」
「人はいつか死ぬでしょ。だから、生きることは罰なんだ。生きるってことは、死ぬことでもあるから。じゃあ、なんの罰かっていうと、生まれてきたことが罪なんだ」
「原罪ってやつか」
「そんな難しい話じゃないんだ。アダムとイヴにご登壇いただくまでもない。だって、僕の世界には僕しかいない。君の世界にも君しかいない。断罪するのも、処罰するのも、自分だ。ほら、だから人はみんな裁定者であり、罪人なんだ」
「なんだよ、それ。じゃあ、罪を赦されるかどうかも自分次第なのか」
「というより罪は赦されないよ。僕はね、人が赦されることを望むのは、根本的に罪人だからだと思うんだ。赦されないとわかっているからこそ、赦されたいと願う。わかりあえるはずがないのに、誰かを理解したいと思うのと同じだね。愛ってやつもさ、うん、きっと贖罪行為なんだと思うよ。だからね、生を受ける罪も、その後積み重ねる罪も、犯した以上それが消えて綺麗さっぱり元の状態に戻るなんてことは有り得ない。有り得ないんだ。だって、僕らは元から罪人だから」
 言葉はどうしようもなく諦めてしまっている者のそれに聞こえたが、水原はいきいきとした様子でそう話した。
「なら……それならあんたはどうなんだ? 毎日病院で変化のない日々を過ごしてる。車椅子がなけりゃ、どこかに行くことさえままならない。あんたは、そんな自分の生活を罰だと思っているのか?」
「僕を憐れむ人はきっとそう思うんだろうね。だけど僕は違うよ。これを罰だとは思わない。車椅子生活は少し予想外だったけど、悪いことばっかりじゃないさ」
 水原はそう言いながら自身の車椅子に手をかけて、まるで愛でるように肘掛けを撫でた。
「こうして君にも会えたしね」
 まぶし過ぎる言葉と笑顔が俺の胸を優しく貫いた。
 不思議と悪い気はしなかった。
「バカ言え」
「あー、照れてるー」
 照れてるわけでもないのに、そう言われると顔が熱を帯びるんだから、人間の体というのはたちが悪い。
 からかう水原をよそに観葉植物への水やりを続けていると、ふと何か思い出したというように水原がそうだ、と声を発した。
 てっきり、また何か新作の小説か何か買いに行かされるものと思った俺のうんざりした心を、水原の言葉が蹂躙した。