迂回はあなた
外れた、と表したのは僕の父、起きた、と評したのが僕の母。そしてその後連れて行かれたお医者さんには――眼鏡を掛けた黒髪の男の人だった――成った、と言われた。
『いやあさすがだよ。本当に君たちは素晴らしい!絶類離倫の極みだね。ああ全く、君たちはどこまで私の予想を突き破ってくれるんだろう。最高だよ!』
面白そうに眼鏡奥の双眸を細めるその人はどう贔屓目に見ても決して善人ではなさそうだったし、両親ともそれは判っていたようだった。父は硬い顔をしたままそれより、と言った。
『この子は「どう」なってるんですか』
『うん?君だって判ってるだろ。駄目だよ現実はちゃんと見なきゃさ――逸らしたところでなくなりはなしない。観測によって成立する事象なんてものはオカルトか粒子レベルでしか存在しないんだ。この世のものはみんな、人間なんて矮小なものと天懸地隔しているんだよ?』
父の眉が寄った。父が父でいるときにこんなに厳しい顔をするのは初めてで、僕はそのときようやく――自分の身に何が起こっているのかを感じ取った。
自分は変わってしまったのだ。生まれたときに持っていた『自分』をなくし、代わりの『自分』になってしまったのだ――そう、丁度父が仕事で全く別の人間をその身に住まわせるように。
ただ違うとことがあるとすれば、父のその人たちは父が望んで迎え、そして父を傷つけない人たちであるのに対し、僕が新たに迎えた僕は、僕ですら一体誰なのか判らず、そもそも僕が付き合っていけるような存在ではないと言うことだけだ。
そうだ。そうでなければ――どうして僕は、信号無視のトラックにはねられそうになってそれを両手で押し止めるなどと言う――普通の人間なら決して出来ないようなことをした挙げ句、身体中包帯とギブスで固められ、呼吸すら機械に頼った身体で――普通の人間なら死んでいなければいけないような大怪我をした身体でまだ生きていられると言うのか。
お医者の人はとりあえず、打てる手は一つだけだろうねえ、と言った。
『ルリさんがずっとこの子の側にいられない以上、この子の対症下薬はひとつだけ――いや、ひとりだけだよ』
その事件のあと、ようやく(と言うのはまあ表現上のものでしかなくて、僕は半年もしないうちに包帯もすっかり取れて普通に歩けるようになっていた。もちろん後遺症もなし)退院出来た僕に、両親は真剣な面持ちで説明した。――つまり、父と母、その両方の血に、ヒトならざるものの因子が潜んでいて、僕にそれが発露したのだと。
母の血には何代か前にいわゆる異族婚をし、その遺伝子が受け継がれており、母も昔それで苦労したのだと言う。そしてそのとき出会ったのが、父の兄であったのだそうだ。
お前の伯父さんだね、と父は言った。
『あの人はね、「一代限りの進化形」と言われていた。そう、一代限り――だったはずなんだよ。でも』
お前が生まれた――と父は言った。月がない夜空の色をしたきれいな瞳が僕を見下ろす。
『父さんはずっとあの人と一緒に暮らしたから、判ってる。俺たちじゃあお前を、お前みたいな子をきちんと守ってやれない。育ててやれない。だから』
彼のところに行きなさい。それが父の言葉だった。
そうして、僕は彼の子供になった。
その言い方は正確ではないかも知れない。僕の親はいまでも二人だけ、そろって人形のように美しい、この国が誇る俳優と歌手、羽島幽平と聖辺ルリ。
けれど父も母も、彼のことをお父さんのように思いなさい、不器用だけれどとてもいい人だから、そう言った。
寂しかったし嫌でもあった。けれどここでそれを言ってもたぶん何にも変わらない――どころでなく、きっといつか僕が二人にひどい迷惑を掛けてしまうだろうことは絶対だった。だから僕はその人のところに行くことを決めた。今まで一度もあったことのない人のところへ。嫌々、ではない。あえて言うなら……覚悟を決めて。そう言う気持ちで。
僕が小学校に上がる直前の冬のことだ。父に連れられ、僕はその人と会うことになった。彼が住んでいるという、池袋で。
荷物はもうその人の家に送ってあって、僕は小さな鞄を肩から提げた格好で、コートと帽子で変装した父と一緒にファーストフード店に入ってその人を待った。僕はず、と自分のシェイクをすすりながら、これから――少なくとも僕がこの力のとりあえずの制御が出来るようになるまでの間――お世話になる人について今知っている情報をもう一度おさらいしてみた。もう何度もやっていたことだし、第一、そんなに多くのことを知らない。いいやむしろ、父のたった一人の兄についてとしては、知らなさすぎると言っていい。ただ、両親や祖父母に何度もしつこく尋ねたところ、その人は小学校低学年の時に「こう」なって、それ以来大変な――本当に心底生きているのが嫌になるくらい、馬鹿馬鹿しくなるくらい大変な人生を過ごしてきて、今は借金の取り立て屋に収まっていると、そう言うことだった。
子供の僕から見ても結構それは失敗しちゃった方の人生なんじゃないのかと思わなくはないけれど、でもそれを話すときのみんなの顔は凄く優しくて、彼のことが凄く好きなんだろうなと感じられた。
そして、僕がその会ったこともない彼を好きになるには、それだけで充分だった。
ピンポーン、と、ちょっと間抜けなベルが鳴って、新しい客の入店を知らせる。僕と父は扉を見――次の瞬間、父の雰囲気ががらっと変わった。母が家に帰ってきたときのように、一気に空気が明るく、軽く、優しくなる。
羽島幽平、ではなく、平和島幽としての、感情。
僕は入店してきた人をもう一度見た。……ひょっとして、この人が?それを肯定するように、彼はこちらに歩いてくる。
背の高い人だった。そのくせ細い。眼が痛くなるほど明るい金髪、青いサングラス。それだけならいい。けれど。
『……服』
当時の僕にはそれだけしか言えなかった。薄いシャツに背中の開いた黒ベスト、蝶ネクタイ。それをバーテン服というのだと知るのはこのすぐ後だ。
真冬に片足突っ込んだこの季節に、その人はマフラーひとつ巻かず、その格好で、この池袋の街を歩いてきたらしい。
こつこつ、と革靴を響かせ、彼は父の前、僕の斜め前の席に座った。サングラスを取る。
さぞ強面かと思っていたら、そんなことはなかった。父のように怖いほどの美人、ではないけれど、その分人好きがすると言えるだろう。
『兄貴、久しぶり』
父が、口を開く。嬉しそうな声。――母と僕の名前を呼ぶ以外で彼がこんな声を出すなんて初めてで、僕はちょっともやっとしたのだけれど――それはすぐ消えた。彼の方も、父を呼んだからだ。父のそれより、もっと喜色のよく滲んだ声で。
『ああ、久しぶり、幽。――それと、』
ちら、と僕を見下ろした。焦げ茶色の眼。夏と秋の丁度真ん中の、優しい昼下がりの日差しのような眼だった。
『初めまして、俺の甥っ子』
そう言って、彼は――僕の伯父、平和島静雄は、僕の名前を呼んだ。
迂回はあなた