この手から溢れる
嗚呼、あなたがフランシスなのね。話はよく聞いているわ。さぁ、早くおかけになって。こんな見窄らしいところに来て頂いただけでも心苦しいのですから、せめて楽にしてくださいな。
「ありがとう。じゃあ、好きにさせてもらうよ。」
ええ、ええ。そうしてくれないと私が困ってしまいますもの。そうしてくださいな。お客様にお茶も出せない為体で、全くもって申し訳ないわ。ごめんなさい。
「いやいや、気にしないでって。そんなことよりも体はどう?」
あなたが来てくださったんですもの、嘘みたいに気分がいいわ。まるで天国にいるみたい。
「こらこら、縁起でもないことは言っちゃいけないよ?」
そうねぇ。お迎えはまだまだ遠くないと困っちゃうわ。来週には、主人が帰ってくるんですもの。それまでは家を守らないと、死んでも死にきれないってものでしょう?あの人ったら寒いのに滅法弱いから、新しいセーターも編んであげなくちゃいけないし、おなかをぺこぺこに空かせているでしょうから、おいしいご飯も作ってあげないといけないわ。ああ、することが山積みね。
「そうだよ、まだ駄目だ。駄目なんだよ。」
戦争なんて厄介なものよね。もう嫌になってしまうわ。
「・・・ごめん。止められなくて本当にごめん。」
決して、あなたを責めているわけじゃないのよ。だって、悪いのは人間だもの。
「ごめん。守れなくて、本当にごめん。」
うふふ、馬鹿ね。大丈夫よ、きっと大丈夫。
「守りたかった。君を、あいつを、彼を、みんなを守りたかった。」
あなたが守ろうと思えば、きっと何でも守れるわ。大丈夫よ。
女は熱に浮かされ、既に視線を合わすこともできなかった。それでも、励ますように俺の手を握る彼女の手は力強い。流れ込むのは希望だ。どんな状況でも決して諦めることのない彼女の魂そのもの。
「守ってみせる。守ってみせるよ。」
女は既に意識が混濁し始めていた。もう俺のことも見えてはいないのだろう。けれど、暖かい。こんなにも、暖かいのに。
ああ、なんてひどい。
「最期にいい思い出ができたわ。ありがとう。こんな私でも覚えていてくれるなんて、生きていて、生まれてきて良かったわ。ああ、嬉しい。」
愛しているわ、我が国を。あなたを。
あの人だって、そう思っていたのよ。意地っ張りだから、言えなかったかもしれないけどね。
ふふ、と女は満足そうに微笑んだ。その後、すぐに瞳は光を失った。
彼の優しい右手は彼女の瞳を閉じさせる。小さく呻くような声を漏らすと、瞼に触れるか触れないかの口づけを落とした。どうか彼の人に安らかな眠りをお与えください。男は小さく十字を切った。
彼女の夫との約束だったのだ。病弱な彼女を残して、先に逝くのは忍びなさ過ぎる。男は泣いた。どんな攻撃を受け、惨めな生活を強いられようと、一度も涙を零さなかった男だったのに。彼女が逝くときは、俺が見送ろうと言うと、男はまた泣いた。「嗚呼、もう一度愛してると伝えることさえ出来ないなんて。」男は掠れた声で彼女の名前を呼ぶと、意識を失った。そして、すぐに冷たくなっていった。
そこは戦場だった。
涙のような雨も、ただ生臭い血の香りを際だたせるだけの。
非情な戦場だった。
小さな木製のベッドに横たわった小さな女性。
涙は出ない。泣くことさえも虚しい。
痛むことさえ慣れた俺なんかに、看取られて笑った強く美しい女性。
「こんなものっ。」
こんなモノが産むモノなんて、どうして欲しがる。
ささやかな幸せさえも守れない。
この戦いで受けた傷はいつか癒えるだろう。国なのだから。
でも、死んだ民は還ってこない。
その一人一人を弔いながら、俺は生きていくんだ。
「こんなもの、終わらそう。」
そっと傷を撫でた。
やはり、涙は出なかった。