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ながさせつや
ながさせつや
novelistID. 1944
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 妖艶な声で、響く音がする。
 暴力を嫌悪する腕に、嘘ばかり転がす唇で触れて、折原は平和島を見上げた。
「ねえねえシズちゃん、ねえ、聞いてるの?」
 折原の、正しく響く甘えたがりの声が、平和島の、形良い耳の中を滑ってゆく。伸ばされた細い腕が平和島の首筋を掠めて、捕縛する。女性特有のうつくしい白さと細さを体現した折原のそれが抱き締める力は弱かったが、けれども確かな拘束力を持っていた。
 壁に身を預け、抱きついてくる折原を受け止めながら平和島は寄ってくるなと顔をしかめる。焦げた金の色をした髪は、濡れている。本人にはたいした感慨もない豊満な体を、うすっぺらな白いTシャツが包んでいる。長い丈のそれはすっぽりと下着も隠していたけれど、彼女の粗雑な振る舞いではちらりちらりと鮮やかな色の下着が見えることは必死であった。
「ふ、濡れてるとぺったんこ」
 ちゅ、ちゅ、と小鳥のように啄ばむキスを、折原は平和島の額と頬に落としてやった。折原の、射干玉の髪もまた、濡れている。平和島は、その辺に投げられていたバスタオルに手を伸ばして掴むと少し乱暴に折原の髪を拭いてやった。途端、折原は従順な動物のように頭をたれて平和島のされるがままになった。おしゃべりな口も動かないで、時が凍りついたみたいに静かな世界。
 この部屋は平和島の住まいである。古くて狭いアパートは、もう永らく折原の気に入りであった。狭い部屋は、傍にいられる口実になるからだ、と彼女は嘘をつくときと同じ動作をして囁いたけれど、それが真実であることを、平和島は知っていた。
「俺も、拭いたげようか」
 折原の丸い頭を包んでいたバスタオルが取り払われると、しんと凪いでいたはずの部屋の空気がすぐに揺れる。平和島の指先からするりとバスタオルを奪うと、折原はそのまま平和島の金色の髪の毛を隠した。バスタオルをしゃかしゃかと動かして、髪の水気を吸い取っていく。折原の髪の毛を拭いた後だったので、少し湿っていたが、シャンプーの花の香りがわずかに分かる。風呂上りの、しなやかな香りだった。
「シズちゃん、いいにおいするねえ」
 細いからだが、ぴたりと、豊満な平和島のからだにまるで埋もれるみたいに密着する。拭いた髪にキスを落として、折原は平和島を抱き締めるように呟いた。黒いサテンに、紅い絹糸で施された薔薇の刺繍が鮮やかなキャミソールの肩紐が、ともすればいともたやすくするりと落ちてしまいそうなのを平和島はうっそりと眺めやる。折原はいつも、こういった扇情的な下着を選ぶけれど、それは平和島にはなんの興味もないことであった。
 折原はいつでも平和島に触れようとする。指先で、手のひらで、時にはからだ全部を触れ合わせて。
「俺ね、男だったらきっとさあ、シズちゃんに俺の子ども産んで欲しくてたまらなかったと思うんだよね」
 ようように抱き締めたからだを解放したと思ったら、今度はバスタオルで平和島の頭を包んだまま、その両端を持って顔を寄せる。首の上だけ持っていかれるような感覚。彼女は、知り合いの妖精を思い出した。
「でもね、女で良かった。シズちゃんの中に誰かが巣食うだなんて嫉妬で気が狂いそうだよ。男の俺って馬鹿だよねえ、ほんと、シズちゃんは俺だけのシズちゃんでいればいいんだ」
 平和島の下唇を舐めるようにして折原は口づけた。下唇を舐めて、少しだけ噛み付いて、上唇を吸い上げる。いやに手馴れた動作だけれど、それはもう何年も平和島に与え続けられているものと同義だから気にもならない。
「でもテメェだって好きな奴の子どもは欲しくなるんじゃねぇの?」
 女であることの特権――生命を宿し、産み落とす行為――を否定しているようなその折原の口ぶりに、平和島がつと尋ねる。折原は、その言葉にたっぷり何秒もかけて瞬きをし、そうしてなにそれ、と呟いて、寝転がるように平和島の腰へ抱きついた。身を全て預けて、平和島の丁度、腹の辺りに耳をぴたりとくっつけて。
「なにそれ、つまり俺がシズちゃんの子どもを孕めばいいの?」
 キンと冷たい声である。折原のこの声は、相手を激怒させるための演技であるか、それとも彼女自身が激怒しているかのいずれかである。俺は絶対に嫌。いやだったら、いや。駄々をこねるように折原は言葉を継いでゆく。平和島は、仕方なしに腹に寄せられている丸い頭を撫でてやった。それしか宥める方法を知らない、不器用なやり方であった。
「俺はいや、子どもなんていらない、絶対。シズちゃんが愛するのは俺だけでいいんだよ。俺と君の子どもなんて冗談じゃない。俺が孕んでもシズちゃんが孕んでも、きっとシズちゃんは俺を蔑ろにするに決まってる。母親と子どもの歪んだ執着みたいな関係を知ってる? シズちゃんが赤ん坊を産んで、俺じゃない何かとシズちゃんにそんな執着が結ばれるのなんて耐えられない。俺が赤ん坊を産んで、君よりもっと大事な存在が出来るだなんてそんな感情知りたくもない」
「俺の子どもなんて言ってないだろ」
「それこそ失礼だよ、シズちゃんはひどい」
 好きなのはシズちゃん。愛してるのもシズちゃん。独占しかしたくないよ。折原は平和島を上目遣いで見上げると、指先をそろそろと回して白いTシャツをめくり上げる。彼女のよく動く舌先が、Tシャツから覗いた腹を這って上がる。濡れた舌先の少しざらついた感触に、平和島がびくりと反応する。唾液で濡れた部分がひやりとした違和感を残して広がっていって気持ち悪い、と平和島は顔をしかめた。
「それに、俺の子どもなんて、凶悪に決まってる。ゾッとするね。俺は俺一人で十分だよ」
 短い黒髪を揺らしそう言うと、折原は平和島の乳房に顔を寄せて口づける。Tシャツはいよいよ意味をなしていなかったが、どちらもたいして気にしていないようなそぶりでそこに居た。
「全部。全部だよ、シズちゃんのここもそこもあそこも全部。俺の、俺ひとりのでいいんだよ。ねえ、俺だって全部、君たったひとりのものでいたいんだもん」
 ね、俺だけのだよ。もう一度、念を押してから平和島の唇を奪い去った。その胸には、折原が残した所有の朱い花が咲いている。俺のだよ。何度でも重ねて描く、花の名は愛。

2010.4.24