秀才が死んだ
いつも見慣れていたはずの背中が、今日はとても小さい、と思った。
「雷蔵」
雷蔵は暗い部屋の中で、灯りも点けずに背中を丸めて胡坐を掻いて座っていた。三郎が後ろから声を掛けても、反応することはない。雷蔵はじっと動かずに、ただそこに居た。
「私のことを、恨んでいるのか」
雲から顔を出した月の光が、開いている障子の隙間から差し込んできた。立っている三郎の影が細く伸びる。雷蔵からの返事を待っていると、雷蔵は肩越しに振り返り、三郎を目一杯睨み付けた。その顔の頬には、涙がいくつも筋を作っていた。この涙の理由を、三郎は知っていた。知っていた、と言うよりもその原因を作ったのは三郎だった。
「そんな顔をしないでくれ。どうしたらいいかわからなくなる」
三郎は雷蔵を慰めるように出来るだけ優しく言った。しかし、そんな三郎の思いも届かず、雷蔵は涙を流しながら叫ぶように言った。
「なぜ見殺しにした!」
雷蔵が三郎に掴み掛かる。いつもなら避けられていたが、怒りに取り憑かれた雷蔵はいつもの雷蔵ではなかった。
「わかるだろう。ああするしかなかった」
『兵助、しっかりしろ! すぐに三郎が来てくれるからな!』
『私はもう駄目だ。おまえだけでもここから逃げるんだ、不破』
『そんなこと出来るわけがないだろう! 3人で一緒に帰るんだ、兵助』
あの日、不破雷蔵・鉢屋三郎・久々知兵助の3人は忍務の最中だった。しかし、敵から逃げている途中で三郎は2人と逸れてしまい、その時に雷蔵と久々知が敵の襲撃に遭ったのだった。三郎がなんとか2人を発見したとき、久々知は既に虫の息で、雷蔵も脇腹に深手の傷を負い動けなくなっているところだった。敵がまだ近くに居るかもしれないため、一刻も早くこの場所から離れなければならない。しかしどう考えても、2人とも連れ帰ることは不可能だった。背負うには1人が限界だ。三郎は2人の顔を見た。
どちらを選ぶかなど、三郎には考える必要のないことだった。
「久々知は聡いやつだ。あいつも同じ状況に立っていたらきっとこうしていただろう」
三郎は抑揚の無い声で言った。
『賢明な判断だった。辛かったろうが、おまえは間違っていない』
忍術学園に重傷だった雷蔵を連れ帰ったとき、教師たちはそう言った。恐らく、久々知を連れ帰っていても、その道中で死んでいただろう。ならば生き残れる見込みのある者を選ぶのが正しい判断だ。しかし、雷蔵はそれを拒絶した。
「俺だったら瀕死の仲間を置いて逃げるようなことはしない!」
三郎の体が激しく揺さぶられる。三郎は歯を食いしばって耐えた。雷蔵の目からは、涙がぼろぼろと零れてきていた。
「おまえは優しすぎるんだよ、雷蔵。久々知はどのみち助からなかった」
「だからって……こんなこと……!」
三郎も、胸が痛まなかったわけではない。入学したときからずっと一緒だった仲間だ。先ほどからずっと、病のように胸が締め付けられていた。しかし、雷蔵が助かったという安堵感のほうが、それよりも優越していた。
「私はおまえが生きていてくれれば、それだけでいいんだよ」
三郎の装束を掴む雷蔵の手が緩まる。そして、ずるずるとその場にへたり込み、身体を折って蹲ってしまった。三郎は、再び丸まった雷蔵の背中を見下ろして、呟くように言った。
「私はおまえのためだったら、どんなことでもする」
雷蔵は、三郎の足元で蹲ったまま泣いていた。返事はなかった。
おしまい