冒険の書をあなたに
第一章 グランバニアにて〜ルヴァの猛勉強
長い睫毛がゆるりと持ち上がり、アンジェリークの意識は夢と現のはざまから覚醒した。
まず天井から吊り下げられたシャンデリアが視界に入り、先程まで居た場所とは明らかに違う様子に慌てて身を起こした。
寝台からの物音にルヴァがそちらへと声をかける。
「お目覚めですか、アンジェ。体の調子はいかがですかー?」
聞き慣れた愛しい人の声に、アンジェリークは一人ではないのだと安堵して、全身を覆っていた緊張から解放された。それでも先刻の戦いを思い出して恐ろしくなり、すぐさま弾丸のような勢いでルヴァの元へと駆け寄る。
それまで長椅子で読書──懐に入っていたもののようだ──をしていたらしいルヴァが、慌てふためいて立ち上がった。
「あああそんな急に……、まだ無理をしてはいけませんよー!」
そう言いつつも一目散に駆け寄ってくる姿に、ほっとしたルヴァの目尻が下がる。こちらはこちらで、もしかしたら目覚めないのではという心配から解放されたのだ。
「ルヴァ……無事だったぁ……!」
今にも泣きそうな顔でぎゅうっと抱きついてくるアンジェリークをしっかりと抱き返し、金の髪を撫でた。
「ええ、あなたのお陰で傷も治ったんですよ。ほらこの通り」
ルヴァが負傷していた左腕を軽く動かしてみせると、アンジェリークは子鹿のように飛び跳ねて喜んだ。
「良かったあー……でも、わたしのお陰って?」
きょとんと小首を傾げるアンジェリークに、ルヴァは少しぎこちなく体を離していく。
「あー……それについては追々お話しますから、えーそのー……先に服を着ましょうか」
言われて見てみれば下着姿なことに気付き、アンジェリークの白い肌がみるみる紅潮し慌てて屈み込んだ。
「え、やだあ! なんでっ!?」
ルヴァは既に執務服ではなく緑色の簡素なローブ姿──全く違和感がない──になっている。
火照った頬を隠すように大きなフードを目深にかぶって、アンジェリークのほうを見ないようにしていた。
安心した途端に、飛び跳ねて揺れる程度にはそこそこ豊満な胸元にふと気付き、目覚めたばかりのアンジェリークに無体なことをやらかしてしまいそうだったのだ。
「す、すみません、あなたをここへ運んでくる間に私の血がドレスに移ってしまって……やむを得ず脱がしました。替えのドレスをそこに用意していただいています。仕度が整ったら国王に拝謁を願い出ましょう」
「わ、わかりました……」
ドレスを着て髪の乱れをさっと手直ししてから、ルヴァに連れられるまま廊下を歩いた。
堅牢な石組みの壁はそこそこの年月を経たことを思わせる風格を持っていた。
「ねえルヴァ、ここってあの丘から見えてたお城なの?」
アンジェリークの歩幅に合わせてゆったりと歩くルヴァが、ふと前方に向けて小さく手を振った。
「そうです。あなたが倒れたあとに出会った方々に助けられましてね……ああほら、その中の二人があちらに」
廊下で遊んでいたらしい金髪の少年、ティミーがぶんぶんと大きく手を振っていた。
その横には妹のポピーもいる。そちらは兄と同じく金髪だが、真っ直ぐな髪を顎下で切り揃えている。
「ターバンのおじさーん! お姉ちゃん目が覚めたんだねー!」
ポピーは二人と目が合うとぺこりとお辞儀をして、兄に突っ込みを入れる。
「おじさんじゃなくてルヴァ様よ、お兄ちゃん! それに廊下では静かにって言われてるでしょ!」
二人のこういうやりとりはいつものことなのだと、ここへ来る最中に父であるリュカが苦笑いをしていた。
「ええ、着替えもありがとうございました。アンジェ、こちらがティミーとポピーです。双子なんだそうですよー」
アンジェリークは膝を折って、双子の目の高さに合わせて話しかけた。
「初めまして、アンジェリークよ。よろしくね」
にっこりと微笑むと、双子は照れ臭そうにえへへ、と笑い合った。
そんな光景を微笑ましく見つめながらルヴァがティミーに話しかける。
「改めてグランバニア王に拝謁をお願いしたいんですが、リュカ殿……お父上は今どちらに?」
到着時は余りにもばたついていた上に疲労も相まっていたため良く観察をしていなかったが、兵士たちのリュカへの対応を見ると彼もまたそれなりの立場のようだった。国王陛下との謁見前に、まずは一言お礼を言っておきたかったのだ。
双子たちが顔を見合わせ、それから少年が口を開く。
「お父さんなら、この時間はたぶん中庭でお母さんやドリスお姉ちゃんとお茶飲んでるんじゃないかなあ」
言いながら剣の代わりに木の棒を持って、素振りを始めるティミーに続いてポピーが話し出す。
「お母さんとドリスお姉ちゃんだけだと危険だからって、お父さんも一緒にいるの。わたし、ご案内します」
ポピーもまた、リュカと同じく何か形容し難い不思議な目をしていた。
今はその母親似の空色の瞳がじいっとアンジェリークを見つめている。
「あのね、魔法使いのマーリンお爺ちゃまが、あなたのこと天使様だって言うの。本当ですか?」
その言葉にちらりとルヴァを見ると奇妙な顔をして横に小さく首を振った。言わないほうがいい、と目で訴えているようだ。
「……さあ、どっちだと思う? もしかしたら悪魔かもよー、どうするぅ? 二人とも食べちゃおうかー!」
アンジェリークは悪戯っぽくニイ、と笑ってはぐらかしておいた。子供たちは気付かない様子でケタケタと笑っていた。