光まぎれる銀色に
朝、からりと晴れた青空を窓越しに見て、飲み干したカップを置いた。
自分の気に入りのカップは底に薄くこげ茶の液体を残していたが、置いておけば誰かが片付けて洗うだろう。
なにせ、自分はこれから本分である学業に勤しむために登校するのだ。
そんなことにかかずらわっている暇はない。
「さて、行くか」
鞄を手に持ち、横の椅子に腰掛けて同じようにカップを傾けていた幼馴染みに声をかける。
ちょうど、彼も中身を飲み終わったところのようだった。
はい、と返事をして、彼も立ち上がる。
と、
「シュミット」
呼ばれて、体の向きを変えると、エーリッヒが一歩、近づいてきた。
視線はシュミットの顔より少し下に送られていて、自分もつられてわずかに視線を落とす。
「タイ、歪んでます」
「ああそうか?」
指摘されたのは、シュミットとエーリッヒが揃いでしているリボンタイだ。
細いこげ茶のベルベットの生地で作られたそれは、二人が通うスクール指定の服装の一部だ。
言われて直そうと右手を動かすが、左手には荷物を抱えているため、片手ではどうにもうまくいかない。
そして、鏡もない中で、うまく直しなどできるはずもない。
もぞもぞと指を動かしているシュミットにくすりと笑ったエーリッヒが、襟元に手を伸ばしてきた。
「貸してください」
笑みを含んだ声音で言われて、ああ、とシュミットは返事をした。
エーリッヒは、わりと器用な方だ。
ひとつひとつがずば抜けている訳ではないが、なんでもそつなくこなす。
ミハエルが一番満足いく紅茶をいれるのもエーリッヒだし、自分好みのコーヒーの入れ方が一番うまいのもエーリッヒだ。
加えて気づかいも細やかで、だから周りからの信頼は厚い。
誰彼かまわず優しくしているわけではないが、紳士的態度、というやつなのだろう。
自分からすれば苛立ちしか感じないような連中にも、柔らかい笑みを見せて対応するから、それはそれで大したものだと思うのだ、実は。
まあ、シュミットに対するときは、単なる紳士的対応というのとは、多少違っているのだが。
自分の首下で動くその器用な細い指をなんとなく見つめて、それからわずかに顔をあげれば、柔らかい青でシュミットの首下を見つめる視線に行き当たる。
自分よりも少しばかり身長の高いエーリッヒが、作業をしやすいようにかわずかに身を屈めているから、普段よりも低い位置にそれが見えた。
伏した瞳の上には、猫っ毛でふわふわと揺れる髪。
朝からきちんとしないとうまく収まってくれないんですと、それなりに時間をかけて整えているのを知っているそれは、整えられて間もないせいか、毛並みがそろって美しい。
窓から差す陽光が当たって跳ね返り、輝いて見える。
ああきれいだと、思った。
と、
ふわり
風が入った。
シュミットの頬を撫でて、エーリッヒの髪を揺らし、そうして、
「…くすぐったい」
揺れる毛先が自分の顎あたりに触れた。
「はい?」
ひょいと顔を上げたエーリッヒが、むずがゆそうな顔をしたシュミットに気づく。
ああすみませんと髪をひとなでして、エーリッヒは笑った。
「できました」
どうぞと離れていく銀糸に、文句を言ったのは自分だというのに、名残惜しさが湧き上がる。
知っている。
柔らかくて、触れると心地よいあの感触。
行きましょうかと、改めて部屋を出ようとした背中に、ふと思いついて声をかけた。
「……お前も、」
「はい?」
エーリッヒが首だけ振り返る。
「歪んでいるぞ」
人差し指を立てて示してやると、え、そうですか、と視線をおろして首をひねるエーリッヒのリボンは、本当はどこも歪んでなどいない。
器用なエーリッヒが自分で鏡でも見ながら結んだのだ、歪んでいるはずがない。
「直してやる」
けれど、シュミットはそう嘘をついて、指を伸ばした。
「いえ、自分で、」
辞退しかけたエーリッヒをいいから直してやると視線で押しとどめて、エーリッヒの眼前に立つ。
鞄を置いて、リボンを手にかけた。
見事に左右均等の長さに垂れて、綺麗に結ばれていたそれを、するりと解いた。
「すみません」
謝るエーリッヒに、お互い様だろうと返すと、そうですねとエーリッヒが笑った。
……実際は、お互い様でもなんでもないのだが。
お互いの息がかかるほどの距離で、しかしシュミットは襟口を見つめてゆっくりとリボンを結んでいく。
ちらりとのぞく首筋に、少し眺めの襟足がかかっている。
褐色の濃い肌と、静かに輝く銀糸の対比が綺麗だと思った。
「直ったぞ」
シュミットとて、そう不器用な方ではない。
しかし、シュミットの作った結び目は、エーリッヒ自身が結んだものよりどこか形が崩れていたが、
「ありがとうございます」
エーリッヒは少しだけ首を傾けてにこりと笑った。
ちょうど窓を背にした位置にシュミットは立っていて、そうすると、シュミットの正面に立つエーリッヒは窓からの陽光を、まっすぐに受けることになる。
きらきらと音でもしそうな光が、まるでエーリッヒに降りかかるように思えた。
触れたら心地よいと知っている柔らかい髪が、
ふわりと光に揺れて、
そうしたら、自分は考えるでもなく、もう動いてしまっていた。
ぐいと引き寄せる体は、突然のことに抵抗もなくあっけなくシュミットの腕に収まって、
「シュ、シュミット?」
どうしたんですかいきなり、と困惑はしても、拒んだりはしない。
抱きしめると、銀糸の髪が頬に触れた。
状況を把握できないながらも、やがておずおずと抱き返してくる腕に、シュミットはひっそりと笑う。
ぎゅうと抱きしめる腕に力をこめると、身じろいだエーリッヒの銀糸がまた、頬に触れた。
柔らかくてくすぐったくて、昔からとても好きだったそれに、シュミットはそっと口付けを落とした。
2010.4.25