鎖
白い腕が伸びてきたと思ったら、目にも止まらぬ早さで襟首を掴まれた。戦闘中ですら見た事もないような剣幕でその端正な顔を歪めながら、今にも殺してやると言いたげな目でこちらを睨みつけている。ベッドに座ったままの体勢で綾瀬川を見上げながら檜佐木は、ああ、あの時と逆だ、などとぼんやり思っていた。ただし綾瀬川の剣幕はあの時と同じだ。斑目一角の柱が壊された、あの時と。
「もし、もしあの時一角が死んでいたらどうしてくれるんだよ。あの時君が止めさえしなければ、三番隊の奴に薬を打たせる隙なんて与えなかった」
「斑目は生きてた。それでいいじゃねえか」
「そういう問題じゃない」
綾瀬川は声を荒げた。力任せに檜佐木の胸を押しのけて、死魄装の襟から手が離れる。檜佐木は後ろに倒れながらも何とかベッドに手をついて、俺の方が重症なんだけど、と半分自嘲を含めた声で呟いた。あれからまだ一晩しか経っていない。四番隊の治療により起き上がれる程度には回復しているが、霊力も戻ってはいないし、何しろ色んな意味でぼろぼろだった。綾瀬川といえば、本当に破面と戦ってきたのかと疑いたくなるほど無傷で、霊力も消耗した様子はほとんどない。理由はだいたい見当がつく。それなのに、昼になって病室に文字通り乗り込んできた綾瀬川は、何の言葉もなしにいきなりベッドに寝ていた人間の胸倉をつかみ上げ、凄い剣幕で苦言を呈してくる。挙句の果てには突き飛ばされた。まったく、怪我人をいたわる気持ちなどこれっぽっちもありはしない。それでも怒りが治まらないのか、綾瀬川は極めつけとでもいうようにこんな言葉を吐き捨てた。
「君はいいよ、死に目に立ち合えたんだから」
「容赦ねえな、相変わらず」
檜佐木は笑った。もはや笑うしかない。同情など最初から誰にも望んではいないが、ここまではっきりと言う奴は綾瀬川くらいなものだろう。いっそ清々しくもある。未だにはっきりと理解できていなかった彼の人の死が現実のものなのだと、妙にすとんと胸に落ちてくる。
「生きている事以上に良い事なんてねえんだよ」
もう一度その目を見据えて静かに呟けば、流石に言い過ぎたと思ったのか、単に疲れただけか分からないが、綾瀬川は視線を背けてひとつ大きく息を吐いた。しばし視線を空間に彷徨わせる。殺風景な白い部屋。消毒薬の匂い。それら全てが、今までの壮絶な出来事を曖昧に遠ざけている。
「…どうして僕を止めた」
先程までとは違う落ちついた声色でそう問われ、檜佐木は間髪入れずに答えた。
「お前に死んで欲しくなかったから」
眉を寄せて綾瀬川が顔を上げた。檜佐木は自分自身に言い聞かすかのように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう誰も、俺の目の前で死んで欲しくない。護れるものは護りたい。俺は、」
「それは君の身勝手だ。そんなもので僕の道を塞ぐな」
「分かってる」
「分かってない」
「お前に憎まれても、俺はお前を死なせたくねえよ」
知らず声が大きくなっていた。綾瀬川は勢いを殺がれて口をつぐむ。昼下がりの病室が妙に静まった。今になって気付いたが、今日は驚くほど天気がいい。ベッドの脇の窓には真っ青な空が広がっていて、あんな戦いなんて無かったかのようにぽっかりと白い雲がひとつ、のんびりと流れていた。小鳥のさえずりすら聞こえてきそうだ。
「僕は自分の意思で誰かを護るつもりはないし、誰かに護ってもらうつもりなんてもっとない」
ぽつりと綾瀬川が呟いた。檜佐木は視線を室内に戻す。妙に澄んだ目をした綾瀬川の表情は、どこか痛々しくも見えた。
「いい、俺が勝手に護るだけだから。どうしても邪魔だってんなら、そん時は、俺を殺せばいい」
「…どうして、」
途端に綾瀬川が顔を臥せた。檜佐木が何も言わないでいると再び、どうして、と呟きながら、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。握った拳が僅かに震えている。泣いているようにも見える。らしくもなく、泣いているのかもしれない。そしてそれは自分も同じなのだと、檜佐木は気付いていた。気を抜いたら溢れ出しそうな涙を悟られないように、再び視線を窓の外に向ける。
「なあ、綾瀬川。殺してくれって頼んだら、お前なら殺してくれるか」
しばしの沈黙があった。救護施設内に忙しなく飛び交う声がひどく遠くに感じる。まるでこの部屋だけ別の空間に取り残されてしまったような、二人だけの世界。
「……ああ、くそ、馬鹿に付き合うんじゃなかった」
微かに震える声で綾瀬川が呟いた。
「そんな事、許す訳ないだろ。逃げるなんて一番醜い事だからね」
君は、生きていかなきゃならない人なんだよ。そう言う綾瀬川はきっといつもの高慢そうな顔をしているだろう。ああ俺は戻ってきたんだなあと、檜佐木はようやく実感する。否、本当は、彼が病室にいつもの調子で乗り込んできた時に心の底から安心したのだ。生きている。二人とも、生きているのだ。檜佐木は表面張力に耐えきれず流れた涙を拭う事もせずに、これで俺達はお互いがいねえと死ぬ事も生きる事もできねえなと言って、笑った。