煉獄の蝶は沈黙に死す
まるで生き物のように蠢くそれは、本能寺を囲み食らいつくそうとしている。
炎の獣を背に負い、濃は強い決意で言い放つ。
「これ以上はやらせない…好き勝手させはしないわ!」
向けられた銃口に、白い衣を炎で赤く染めた謙信は優しく微笑む。
「ちぬられし蝶よ…。おまえのはねは闇にむしばまれています。」
引き金が引かれるのと、剣にかけられた手が動くのは同時だった。
一発の銃声と、一陣の風。
カンと音をたてて真っ二つに割れた弾丸が瓦に跳ねる。
何事もなかったかのように、鞘におさめた剣を握る謙信。
太刀筋が見えなかった。
その事実に、濃の背筋に冷たいものが走る。
「溺れるものよ、そなたにつかむものなし。」
笑みの消えた表情にはただただ哀れみだけが浮かんでいる。
本当に、心の底から悲しむように伏せられた瞼。
「わたしが、そなたを安らかに眠らせてあげましょう。」
再び開かれたその瞳は、見る者すべてを凍りつかせる冷たさを孕んでいた。
指先がかじかんで動かない。
手も足もカタカタと震えるだけで、一向に自分の意思に従おうとしない。
炎に包まれているはずなのに、周囲の温度はどんどん下がっていっているようだった。
(…上総介様……っ!濃めは…、濃めは……っ)
ぎゅっと銃を握る手に力を込める。
ふと、風が吹いた。
強い風に煽られて、踊る炎。
勢いを増した焔に、身を焦がされるような熱。
強張っていた体が急速にとけてゆく。
そして自分の背にあるもの、ここに立つ意味を思い出した。
濃は目を細めて凄惨な笑みを浮かべる。
(上総介様、濃めは修羅になりますれば…。)
己の手を太ももへと伸ばしながら、濃もまた哀れむような微笑みをつくり、
謙信を見据えた。
軍神?神速聖将?
「それがどうしたというの。
お前は二人の人間を地獄へ送ったのよ!」
冷たくも高らかな声とともに、砲弾の音があたりに響いた。
***
虚ろに宙を見つめる光なき瞳。
黒い硝子玉に炎が光を落とす。
謙信は白い手を伸ばし、その目を閉じさせた。
死してなお美しい蝶。
口元には薄く笑みが浮かんでいる。
炎がパチパチと音を立てて爆ぜる。
(まおうをたおさねば。)
ゆっくりと立ち上がり、蝶の亡骸に背を向け歩き出す。
謙信の後を追う様に火の粉が舞った。
ちらちらと舞いながらまとわりついてくるそれにまぎれて、声が、聞こえた。
『お前は』
こがれる虎と似て非なる炎を纏い、愛しいつるぎと似て非なる瞳でわたしを責める声が。
『お前は二人の人間を地獄へ送ったのよ』
その声から逃れるように、その言葉を噛みしめるように、瞳を閉じる。
戦場の喧騒が遠く聞こえる。
燃え盛る炎に、わたしは触れることができない。
確かに空気は熱を孕んでいるはずなのに、
感じる温度は冷たく、柄にかけた手は凍えたように冷え切っている。
(ああ)
ゆっくりと開いたまなこに映るのは一面の炎。
燃え盛るじごく。
(おとされたのはわたしのほうだ)
作品名:煉獄の蝶は沈黙に死す 作家名:キミドリ