三千世界の鴉を殺し
目の前に、予想もしていなかったものがあった。
障子越しの月の青い光。向かい合うように眠っている白い吸血鬼の寝顔に篤は少し面喰って、それからほの暗い中を、眠る男の顔に思わずまじまじと見入ってしまった。
一瞬呼吸をしていないのかと思う程微かな寝息。身じろぎの一つもしない。青白い光に照らされる肌の、無機質な白さも相まって、どこか作り物の人形のような印象を受ける。
珍しい、と思った。
閨は共にしても、この男が眠っている所を今まで一度も見たことがなかったのだ。
男の気の済むまで蹂躙されて、半ば気を失うように眠りに落ちた後は、翌朝まで前後不覚で泥のように眠ってしまうし、起きた時はいつも一人で、重い身体を引きずって浴室に向かうのが常だったから。
起きている時の傲岸さが嘘のように、レンズ越しでないぼやけた視界でも分かる整った顔立ちは穏やかで、全くひどい違和感だ。普段とあまりに落差のある無防備な寝顔を、少々呆れて見つめる。
寝首を掻かれるという考えはないものだろうか。
……この男は首を落としても死なないが。
物珍しさでしばらく顔を眺めながら、本当に彫像のような造作だと、何の気なしに手を伸ばして男の頬に触れてみた。
頬から額、長いまつげに縁取られた瞼に、整った鼻梁、赤い唇へと辿る。
と、その手をいきなりを掴まれた。
赤い瞳が自分を見ていた。
「……起きてたなら言えよ」
「今起きた」
笑いを含んだ言い方に、篤は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「もう少し可愛らしい反応は出来ないか」
うるさいなあと背を向けると、伸びてきた腕が腰を抱いた。
後ろ向きの髪やうなじにキスが降ってきて、思わず身をすくませる。
しかし予想に反して雅はそれ以上は何もせず、後ろから篤を抱きしめたまま首筋に顔を埋めた。
「何だよ」
返事はなかった。
どうやらこの体勢のまま再び眠りに就こうとしているようだった。軽く肘を張って離すように促すと、逆に腰を抱く力が強くなった。
本気で朝までこうしているつもりなのか。ああもしかして自分が意識がない時、いつもこんな風にされて眠っていたのだろうかなどと嫌な考えが浮かんできて、我慢できずに腕から逃れようとする。だが馬鹿みたいに力だけはある細い腕は、がっちり腰をホールドしたまま動かない。
「離せ」
イライラと低い声で呟くと、雅は頭をすり寄せてきて、覇気のない眠そうな声が耳元でした。
「このままでいろ…」
途端に。今まで気にも掛けたことがなかった、触れる肌の感触だとか低い体温だとかに急に戸惑いを感じ、篤は眉をひそめた。
何だよ。これではまるで。
咽喉の奥の方からせり上がってくる、甘やかで苦いもの。
「……ッ」
小さく舌打ちをして、強引に身体を反転させると、篤は雅を身体の下に敷いた。
「珍しい」
「別にいいだろ」
からかうような声を無視して胸に唇を落とした。
そのまま下へと辿って行くうち、そっと仰いだ顔の、瞳に宿った色に、先程までの穏やかな空気の名残は消えて、篤はどこかで安堵した。
朝、目覚めるその時に、こいつと一緒にいるなんて絶対ごめんだ。優しく扱われるくらいなら、酷くされる方がずっといい。
心を掠める何ものかの正体なんて、知りたくもないんだ。