La Maison Dieu
部屋の入口に姿を現した男に、アグリッパはぎしぎしとほとんど動かぬ頭を向けた。
「顔を見せるのは何年振りだ?」
湿っぽい陰気な地下の部屋に似つかわしくない小綺麗な身なりの品の良い男は、階段を下りながらアグリッパの軽口に不快そうに眉をひそめた。
「半年前に顔を合わせたばかりだ」
「これは失礼した、男爵。こうも暗い穴倉に籠っていては、時間の感覚も無くなってしまうというものだ」
「相変わらずだな、アグリッパ」
「それはどうも。出来ればそこのスイッチも切ってくれ」
アレキサンダーはゆっくりとやって来て、アグリッパの前で後ろに手を組んだ。
「全く君ときたらその厚かましい性格には感心する」
男はアグリッパが一応生きているのを確認しにこうして時たま訪れるのだが、この日のアレキサンダーは随分と機嫌が良いようだった。
「近頃は何やら上が騒がしいようだが。どうもこの城に新しい人間が来たようだな。君の新しい犬か?ヴィルヘルム達は最近見ないがどうした」
アグリッパは少し前から気になっていたことを口にした。
「犬?ああ、あんな俗物とは違う」
アレキサンダーは微笑を浮かべた。
「彼は、ダニエルは……そうだな、今はあれは私のかわいい生徒だよ。君の弟子のように優秀とは言えんがね。無知で愚かだがとても素直だ」
この男にとって誰かを悪徳に引き込むのは、得意中の得意といったところだろう。ヴィルヘルム達への言及がないのも推して知るべしだ。
「はん、君が教えることなど碌なことではないのだろうな」
言いながらアグリッパはどこか違和感を覚えた。長年見てきたが、この男の甘言に惑わされ関わった者達の末路は悲惨なものだ。散々協力させられた挙句、利用価値がなくなればあっさり切り捨てられ、最悪は人体実験の材料だ。話の彼もまたそのような人間であろうが、いつもとは勝手が違うように思えた。他の者を語る時にはない、親しさのある語り口だと感じたのだ。まさか言葉の通りに本当に弟子でも取るつもりでもあるまいが。
怪訝なアグリッパに気付いたか、アレキサンダーは彼は私の福音だよと言った。
「彼が私に救いをもたらしてくれる」
「救い?」
ここでアレキサンダーはにやっとアグリッパに向かって唇をゆがめた。
「君は自分の身の心配をしなければならないという事だ」
「…それはもうヨハンの協力は必要ないという意味か?」
「そうとも!私はついに門を開くのだ…!」
アレキサンダーの言葉にアグリッパは戸惑いを隠せなかった。
「君はオーブを制御する方法を見つけたというのか」
「いいや」
相手はもったいぶった態度で首を横に振った。
「ではどうやって。オーブを使わなければ門は開かない。オーブを使えばあれがやってくる」
はっとアグリッパは思い至った。この場所から動けずとも、アグリッパはここ数週間でこの城に満ちていく不穏な気配は感じ取れていた。気のせいかとも思っていたが、そうだ、これは自らも過去に経験した…。
「まさか…わざと影を呼び寄せているのか?馬鹿な!あれから逃れる術はない」
「いいや最初から方法はあったのだ。単純すぎる方法が。ただ奇跡のような幸運が必要だっただけだ」
「それがそいつのもたらす救いか?」
どことなく嫌なものを感じ、アグリッパはき捨てるように言った。アレキサンダーは気にならないようで、アグリッパの前を移動しながらいささか芝居がかった程に悲しげな口調でつぶやいた。
「君ら低次元の生物には分かるまいよ。一(いつ)なる愛から引き離されて物質の檻に閉じ込められるこの苦しみが。今の君が死体に入っているのの比ではないのだ」
アグリッパを拘束している装置に、皺の刻まれた手が触れた。
「だが君もそろそろ楽になりたいかもしれんな」
温度を感じない体にサッと冷たいものが走る。
「成程、今日は私を殺しに来たというわけか」
さっきまで今日の今日でどうにかされると思っていなかった自分を呪い、必死に交渉の言葉を考えながら、アグリッパは努めて平静さを装おうととした。
すると動揺して焦りを隠し切れないアグリッパを見て満足したのか、あっさりと装置から手を離し老男爵は楽しそうにカラカラと笑った。
「冗談だ。君の身柄に価値はなくなったが、わざわざ手を下さずとも君はそこから動けまい。何、最後に別れの挨拶に来ただけさ。君とは長い付き合いだ」
ではさようならと去って行こうとする背に、アグリッパは声をかけた。
「さて、そんなに上手くいくかな」
「心配なぞしてもらわなくとも結構だよ」
男が去り、部屋は静寂に包まれた。
(ヨハン……君はどこかでこの事態を知ってくれているか)
アグリッパはもう面影も遠くなってしまった弟子であり、親友である男を思い浮かべた。
未知なるものへの恐怖から一度は彼の手を拒んでしまった自分だが、このままでは本当に再会も危うい。あの男の望みが叶おうが叶うまいがどうでもいいが、とばっちりは絶対にごめんだ。
今回の件にはどうやらアレキサンダーが語ったダニエルという人物が鍵のようである。獅子の穴に放り込まれながら無事でいるのなら、その理由にこそ付け入る隙があるのではないだろうか。どうにかして彼とコンタクトは取れないか。
この場からは動けない己には何も出来ないが、だが絶望するにもまだ早い。状況を観察して時を待つのだ。
アグリッパは地の底で固く決意した。
作品名:La Maison Dieu 作家名:あお