氷が溶けるまで
“氷が溶けるまで”
兄さんは私に言った。
いつもの、あの、笑顔で。
「もう一度、言って………下さい。」
「ベラルーシ、僕達は離ればなれになる。ソ連は解体するんだよ。」
「……………………です。」
「え?」
「嫌です。絶対にっ!嫌ですっ」
ぼろぼろと、涙が止まらない。兄さんの前で、こんな顔、見せたくないのに。
兄さんは困った様に、笑った。
困らせてしまうことは、わかっていた。
これが、ただの私の我儘で。そして、決して叶わない願いだということも。
「ベラルーシ。僕達は、一緒に居すぎたんだ。このままだと、皆は、ソ連は世界から取り残されてしまう。姉さんや、バルトの皆だって、自由になるのを喜んでいるよ?」
「私は、自由なんかいらないっ!兄さんと………ずっと、ずっと…………一緒にっ…………。」
駄々をこねる子供みたいに、泣いて、泣いて。
兄さんに、自分の酷い顔を見せたくなくて、飛び出した。
行くところなんてなかった。私の居場所は、いつも兄さんの隣だったから。
近くの広場の隅っこで、座り込んで泣いた。誰にも、見つからない様に。
「どうして………兄さん…………。」
泣きながら呟く。まるで、自分に問い掛ける様に。
「そこにいるの………ベラルーシちゃん?」
泣いている私を見つけたのは、兄さんじゃなく、リトアニアだった。
「…………お前に用はない。」
泣いているのを見られたくなかった。よりにもよって、こんな男に。
「泣いてる女の子を一人にするわけにはいかないよ。」
こっちは一人にして欲しいのに。なんてお節介な奴。
「泣いてるのは、ソ連解体の話を、聞いたから?」
「…………お前には関係ない。」
参ったな……という顔をする。早くどこかに行けばいいのに。
「どうして、ロシアさんは俺達を自由にしてくれたと思う?」
「…………………………。」
そんなこと知らない。わからないから泣いているんだ。
「…………俺はね、ロシアさんが、皆のこと、好きだからだと思うんだ。」
「……………何故。」
「だって、俺達が独立したいってロシアさんに言ったでしょう?嫌いならそんなこと聞かないで、なかったことにするんじゃないかな?」
「違う。兄さんは、私が嫌いだから。だからっ私を……………私を、傍に置いてくれないっ……………!」
「そうかな……。俺だったら、好きな人には、自分の好きな様に生きてほしいと思うけど。ベラルーシちゃんは?好きな人………例えば、ロシアさんが独立したい、自由になりたいって言ったらどうする?」
私だったら。冷静に、考えてみる。好きな人を、兄さんを、どうする?
私は、自分の事ばかり考えていた。兄さんの気持ちなんて、考えずに。
もし、私が兄さんの立場なら。
「リトアニア…………………………………………………………………………ありがとう。」
立ち上がって走りだす。
私の行く場所は、一つしかない。
「何やってんだろうな……。俺。でも、君の泣き顔は見たくないよ。」
お礼を言われただけでも、大進歩だ。それが、あの人の為だとしても。
バタンッ
扉を勢いよく開ける。兄さんはぼんやりと椅子に座っていた。
「兄さん…………。すみませんでした。話の途中で、飛び出したりして。」
「ベラルーシ!大丈夫だった?外はまだ寒かったでしょう?」
ああ。そうだ。私は兄さんの、こういうところが好きなんだ。
だから。大好きなあなたの為に。
「我儘を言って、困らせて、ごめんなさい。……………………私は、兄さんから、独立します。」
兄さんは驚いた様な顔をして、でもすぐにまた、あの笑顔に戻った。
「わかってくれたの?」
「はい。」
「僕ね、ベラルーシを説得するのが、一番大変だと思ったんだよ?君は僕に似て、頑固だからね。」
笑いながら、頭を撫でてくれる。兄さんの手は、大きくて、温かい。
「兄さん。一つだけ、聞いてもいいですか?」
きっと、この答えを聞かないと、私は、いつまでたっても前へ進めないから。
「いいよ。」
「私の事を嫌いだから、自由にするんですか?」
兄さんが優しいのは知ってる。
だから、きっと答えてくれる。
その答えが、私にとって、絶望的だとしても。
「ベラルーシ。僕達は、ずっと一緒だったね。毎日、毎日。どうして、一緒にいたと思う?」
「……………わかりません…。」
わからない。
私がしつこく兄さんの傍にいたからだろうか。
「好きだからだよ。君達、皆が。」
「じゃあ、自由にするのは、やっぱり………」
「それは違うよ!…………ねぇ、ベラルーシ。幸せになってほしいんだ。僕に縛られずに。君には、自由に生きてほしいんだよ。」
「好きだから…………?」
「そうだよ。」
安心したら、また涙がこぼれた。
今度はさっきとは違う、嬉し涙。
「また、会いに来ても、いいですか………?」
「勿論だよ。離ればなれになって、寂しいのは君だけじゃないんだよ?」
次々とこぼれる涙を、指で拭ってくれる。
兄さんの優しさで、更に涙がこぼれる。
「ベラルーシ、目をつぶって?」
「……こうですか?」
ちゅっ
頬に残る唇の感触。
今のは、お別れのキス。
兄から、妹への。
「………………お土産は、これで十分です。…………でも。いつか、兄さんを振り向かせてみせますから。」
「ふふふ。覚悟しておくよ。」
これは、私の中の氷が、溶けるまでのお話。
大切な、大切な、思い出。
「どうしたの?ベラルーシ。ニコニコして。」
「いいえ。昔の事を、思い出していただけです。」
「その思い出に、僕はいた?」
「ええ。私の思い出の中には、兄さんしかいませんよ。」
傍にいれるだけで、幸せ。
今は、それ以上はいらない。
いつか必ず、あなたが私に振り向くときが、やってくるから。