セツナ
サラサラと落ちる砂時計の砂を見ていると、ひどく感傷的な気分になるんだ。
彼女から、仕事の打ち合わせが終わったと言うメールが来たのは、今から四十五分前。それから真っ直ぐこの部屋に向かったとすると、そろそろたどり着く頃だ。
そんなボクの予測通りに、インターホンの音が鳴る。
扉を開けると、そこには春歌の明るい笑顔があった。
「美風先輩、こんにちは」
「お疲れ様。その様子だと、無事に納品できたみたいだね」
今日の仕事が上手くいったのは、春歌の顔を見れば分かった。事務所から勧められて応募したコンペ。受かった後も、何度かリテイクを出されて苦戦していたから、少なからずボクも案じていたのだけれど、真面目で努力家な彼女は、無事にやり遂げた様だ。
「はい! 先輩のアドバイスのおかげで、クライアントさんにも気に入って頂けて。本当に助かりました。ありがとうございます」
「別に、お礼を言われる程のコトじゃないよ。単純に、君の仕事がはかどればこう言う時間も増えて、ボクにとっても都合がいいから。ほら、立ってないで座って?」
ボクが促すと、春歌は荷物を置いて、遠慮がちにソファの端に腰かける。
最近特に根を詰めていた彼女のために何かをしてあげたいと思って、今日はボクなりのおもてなしを用意した。
「はい、頑張った君にごほうび」
ボクは、老舗の洋菓子店で購入しておいたスイーツをスプーンと一緒に皿に乗せて、春歌の前に置く。イチゴのムース。彼女の好みはリサーチ済みだから、店頭のショーケースの中から一番喜びそうなモノを選んだ。
「わあ、美味しそうですね」
「待ってて。今、紅茶を淹れるから」
「あ、私もお手伝いします」
「ダメ。君は座っていて。今日は君にくつろいでもらうのが目的なんだから」
立ち上がろうとする彼女を制して、ボクはキッチンへ向かう。
紅茶の淹れ方は知っている。けれど実践は極めて乏しい。これまでのボクには縁のなかった行為だから。事務所では必要ならスタッフが用意するし、この部屋に来客なんてまずなかったし。
あらかじめお湯で温めたポットとカップをテーブルに置いて、それから抽出用のポットに茶葉を入れる。ポットにお湯を注いで、浸透するまで待つ。時間は三分。適切な時間は茶葉によるらしい。計測には砂時計を使う。もちろん時計やタイマーでも同じコトだし、そもそもボク自身は時計がなくてもその程度の時間なら誤差なく測れるけれど、優雅なティータイムを演出するには、たぶんこっちの方が良い。
「なんだか喫茶店にいるみたいです」
ボクの予想通り、春歌は楽しそうに笑って、砂時計を見つめる。ガラスの中の青い砂は、重力に従って一定の速度で下へと落ちていく。
ボクは彼女の隣に座って、その現象をじっと眺める。上から下へ流れる様に落ちる砂。静かに過ぎていく時間。
「綺麗ですね」
何気ない彼女の言葉に、不意に感情が波立つ。
ボクは、視線を隣に座っている春歌に移して、彼女の白い頬にそっと触れる。
「先輩…」
「キスしてもいい?」
ボクが言うと、彼女は恥ずかしそうに下を向く。
「あの、でも」
「でも?」
「…紅茶が」
「まだ早いよ」
ボクは彼女の返事を待たずに、ほんの一瞬、唇に触れるだけのキスをして、両腕で抱きしめる。肌から伝わる体温と、少し早い鼓動の音に感覚を澄ます。不安定な感情の波が、少し穏やかになるのを自覚する。
「ボクは…苦手、かもしれない」
「え?」
彼女の首筋に顔を埋めながら、ボクは呟く。
「砂時計、ですか?」
何が、と言わなくても、ボクの中のノイズを彼女は正確に読み取る。
ガラスの中を静かに零れ落ちていく粒子。
それはまるで、止めどなく過去から未来へと流れていく時間を、視覚化しているみたいで。
「こうして、君といる瞬間をこのまま留めておけたらいいって思うのに、それが不可能なコトだって、思い知らされる」
砂が落ちていく様に、この幸せな時間も零れていってしまう、そんな気がして。
ボクの体は君と違うモノで構成されていて、年月を経ても変わるコトがない。その事実は時として、ボクの心を惑わせる。不安定な感情。ボクは…弱くなっているんだろうか。強くなりたいと言う意志に反して。
「美風先輩…」
春歌は、触れ合っていた体を離して、ボクの手に自分の手を重ねた。ボクはそれが、内気な彼女の愛情表現だと言うコトを知っている。
顔を上げたボクの鼻先で、春歌が穏やかに微笑む。
「先輩が私の事を想ってくれるのは嬉しいです。でも、時間が経つのは悪い事ばかりじゃないです」
「どうして?」
「美風先輩は出逢った頃よりも、ずっと素敵になっています。それは過ぎていく時間の中でたくさんの出来事を経験してきたからだと思います。それに、過ぎた時間の分だけ、思い出もたくさん積もっていきます。それは、決して消えてなくなったりしないです」
「思い出…記憶じゃなく?」
「記憶と、その時に感じた気持ちが一緒によみがえってきたら、それは思い出です。先輩にもあるはずです。胸に刻まれた、大切な思い出が」
過去と呼べるものの少ないボクに、そんなものがあるとしたらそれは。
君との日々。
「これからも、たくさん増やしていきましょう。二人で一緒に」
「春歌…」
彼女の言葉は、ボクの中に、すっと染み込んでいく。
君はどこまでも純粋で、温かくて、優しくて。ボクの欲しい言葉をくれて、ボクの心を満たしてくれる。
ボクは重なった手に指を絡めて、もう片方の手で愛しい彼女の頬に触れる。
「君は本当に、ボクにとって、最高のカノジョだね」
決して普通の恋人同士とは言えないボク達だけど、それでも君はこうしてまっすぐに向き合って、受け止めてくれる。何よりも大切で、愛おしい。
「ありがとう…大好きだよ」
ボク達はもう一度、唇を重ねて、さっきよりも深く長いキスを繰り返す。そっと細い首筋に触れると、春歌がびくりと体を震わせる。
ゴメンね、とボクは小さく言って、そっと彼女の小さな体を包み込む。君の左側から少し早い鼓動が伝わってくる。すべてを委ねたくなる、心地のよいリズム。
「…紅茶、淹れようか」
テーブルの上の砂時計の最後の粒が、下に落ちる。
両腕の力を緩めると、春歌が顔を上げる。まだ少し潤んだ瞳が可愛くて。
「続きは後で、ゆっくりしてあげる」
柔らかい髪を撫でながら囁くと、春歌は耳まで赤くなってうつむいた。
ボクの中に芽生える、たくさんの感情。君の純粋な想いが、いつもボクの心を震わせる。
ボクがもし人間らしく成長しているんだとしたら、それはボク一人の力じゃない。君が僕を変えていくんだ。今と言うこの瞬間にも。
そして今日この日の出来事も、君の言葉も、ボクの中に優しく降り積もって、やがてかけがえのない思い出になる。
ボクの隣にいてくれるのが君で良かった。心からそう思った。