落下、
きみを殺すりゆうが、ひとつでもあればよかったのにね。
ぽつんと弱々しげに漏らしたその唇は、ひどく乾いてかさかさと罅割れていた。そいつはと言えばどうしてか俺に馬乗りになって、その華奢で生白い手と指を、呆れるほどしなやかに俺の首に絡めていた。しかしそれらに力はない。ただ緩く絡み付いて、さわさわと頼りなさげに揺れるまで。そんなことをされていると言うのに、俺はいたって冷静で、ぼんやりとその濡れたような黒髪を眺めていた。それは寝起きで頭がぼおっとしていたこともあったし、そいつの目が、何故か今にも泣き出しそうであった所為でもある。じゅくじゅくと潤んだその相貌が、ゆらゆら俺を映して、まるで水面を覗き込んでいるみたいだ、と、思う。そいつはそんなにも脆弱な風であるのにも関わらず、しっかと俺の目を見つめながら、とつとつと、拙くも呟くのだ。ねえ、すき。って、ゆってよ。
唇がぐらぐらと、不恰好に歪んでいた。それは泪の前触れ。ぱさぱさと、そいつのやたらめったらに長い睫毛が爆ぜる。そして、一際大きく瞬いて、それは一粒、おっきな泪を垂らした。ぱたた、と俺の頬に泪が滴る。許容量を超えて溢れ出した泪は、止まらずに流れ続けている。ぱたん、ぱたん、ぱたたたん。それらは明快で不規則なリズムをつくって、軽やかに悠々と落ちてゆく。しかしそいつの眉根は苦々しげに寄せられたままだ。崩れたそのカオを、不思議に俺は美しいと感じた。端正ないつもの表情が崩壊したその姿は、どうしてだって美しいのである。すき、って、すきって、ゆってよ。じゃないと、もう、俺、可笑しくなっちゃいそうだよ。悲痛で脆い、ちいさなその叫びは、遠慮がちに鼓膜をノックしてゆく。俺はどうしていいのか判らずに、ただ、その目尻を親指の腹で拭う。
ねえ、すきってゆってよ、お願いだから。、なん、で?いーから、いーからはやく、ゆって、お願いだ。だから、なんで。お願いだよ、じゃないと、もう。なんで。、っ、すき、だか、ら。ようやっと咽からしぼり出されたこえは、掠れてはいなかったものの、それはそれは大層弱い。しかしそれでも、一度堰切った言葉は止まらずに、だくだくと溢れ続ける。すきなの、すきなんだ、もうどうしていいのか判らないくらいに。すき、って、終わりだ。もう、その先が見えない。君にすきってゆってもらえなければ、俺はしんでしまうよ。だからそうだ、君を殺してしまおうと思ったんだ。けれど、駄目みたい。君を殺すのは、俺にはすこしむつかし過ぎたようだよ。ねえどうしようか。お願いだよ、すきって、すきって、すきって、ゆって、ねえ。
首に絡んでいた指や手は、もう覚束なくなって、そいつの瞼を覆っていた。がくがくと震えて、こえも震えて、しゃくりあげるように咽び泣く。縋るように、けれどそれすらも見つからず、必死で唇を噛みしめるそこからは、血が、じわりと滲んでいた。痛そうだと間抜けなことを考えて、そこに指先を伸ばしたら、頭をぶんぶん左右に振って、嫌々と。、ごめん。なんと言って良いのか判らずに、そう応えて。するとそいつは、ひどく傷ついた、痛いような、辛いような、哀しいような、笑い出しそうな、そんな、曖昧な表情をする。ああ、ちがうんだ、ちがうんだ、そうではなくて、ああ、ごめん。
ぱたぱたと、透明な、泪が降る。
(から廻る片思いたちよ。)