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春の夜の(桔梗)

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それは三月も終わりに近づいた頃だった。
男は都での仕事を終え、夜中歩き続けて故郷の村へと帰路を急いでいた。
もうすぐ、春も本番になる。
今宵は、夜の寒さもゆるみ、どことなく甘い香りの漂う。
薄い靄のかかったような夜だった。

故郷に帰ったら おかんやおとんがいる。兄妹だちも、喜んでくれるだろうか。
酒も飲んでいないのに、春の夜のせいか、どことなくふわふわした気持ちである。

急に、強い風が吹いた。
民家の敷地に5分咲きに咲いていた桜の花びらが、土にはらはらと落ちていく。
ふと、桜を見上げた。

思わず、息を飲んだ。
そこには、女がいた。
屋根ほどの高さもあろう桜の木の幹に、腰かけ、漆黒の長い髪を、風に吹かれるままなびかせている。
女は少し俯き、白い腕を衣からのぞかせ物憂げに髪を払った。
女のすぐ頭上には、花びらをつけた桜がふんわりと覆いかぶさる。
桜と風と黒い髪と。それはまるで夢のようで――。男は目を離すことができない。

白い衣に赤い袴を身に付け、―そうか、巫女さまか。
男はそこでやっと気づいた。
彼女があまりに「巫女」と離れていたから―。あまりに、はっとさせられる表情をしていたから―。

巫女さまは神聖なお方だからむやみに話しかけてはならないと、きつく教えられてきた彼にとって、巫女さまとは近づき存在であり、なんとなく恐ろしかった。

だが彼女は、都で見てきた誰よりも端正な顔で、春の夜に、そこに座っている。
巫女さまともあろうお人が、木に登るのか―。
どうしてそこにおられるのか―。
男は知りたくて仕方がない。声をかけてもよいだろうか、巫女さまだけれど。

やきもきしている間に、ふと、彼女が視線だけを動かし、男の前で止まる。

「――。」思わず男は息を飲む。
薄くあけられたまぶたに、春の夜より黒い瞳が迷うことなく彼を射抜く。

やがて巫女がふっと表情を和らげる。
「おぬし、旅人か。」

緩められた表情に安堵し、やっと言葉が出る。
「―ええ。巫女さまは、なにをしておられるのですか」
「わたし?わたしか―」巫女はまた遠い目をして、旅人がいることなど忘れたような表情になる。風が彼女の白衣をふわふわと揺さぶる。

「なにかお困りごとがあるのですか、私でよければ」聞きましょう、と、その表情に耐え切れず一気にまくしたてると、巫女はふっと小さく息を吐いた。

「わたしは生きている人間にはかなわないのだ。きっとお前も私などには見向きもしまい」口元をゆがめて苦し気に発せられた言葉に旅人は驚き、
「あなたさまのお役に立てるならなんでも―」とその自嘲的な言葉を取り消すようまくしたてる。

本当か?と巫女は黒い瞳で旅人を見返す。
次の瞬間、ふっとその白衣と赤い袴が旅人の目前に広がった。
風がいっそう強く吹き、咲いたばかりの桜が散ってゆく。
春の夜の甘い香りが一面に漂う。

ふと目が覚めると朝日が差している。
ここは、民家の塀の前。
上を見れば桜の木。
―たしかそこに彼女が。しかし今はその姿はどこにもない。
夢でも見ていたのか?あるいは狐に化かされたのか?
もはや確かめるす術もない。皆に話してもきっと笑われるに違いない。
よい、忘れよう。きっと、夢を見ていたのだ。夜中歩き通しだったから、疲れていたのだろう。
――そうだ、俺は故郷に帰る途中だったんだ。おかんやおとうが待っている。急ごう。
旅人はよいしょと荷物を背負い、歩き出した。

その姿を 黙って見ていた巫女がひとり。
今宵もまた、人間としては生きられぬ自分に悩むのだろうか。

旅人の背中には、巫女が旅路の無事を祈祷した人形が一枚ついていることなど、旅人は知る由もなかった。
作品名:春の夜の(桔梗) 作家名:あいざわ