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60 父と子

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その日の夜、そう遅くもない時間に父アレクセイは、アパートへと戻って来た。

「父さん!ムッターは?」

待ち構えていたようにミーチャが帰宅した父親に訊ねる。

「一応…峠は越した。安静にしていれば大丈夫だ」

「ムッター、どうしているの?…一体今どこにいるの?」

涙を浮かべてアレクセイを問い詰めるミーチャにアレクセイは

「ムッターはな、ちょっと体調を崩して、当分安静が必要なんだ。だから父さんの昔お世話になった家で、今は養生させてもらっている。…とても愛情深い人達で、信頼できる家だから心配するな」

そう言って、不安そうな顔をした息子の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でた。一人で留守番している間に母親の容態を心配して涙していたのだろう。母譲りの碧の瞳は泣きはらして赤くなっていた。

「大丈夫だ!…あのな、実はな…。今お母さんのお腹には、赤ちゃんが…お前の兄弟がいるんだ。お母さんはその子がお腹の中で元気に育つために今は当分安静が必要なんだ。十分栄養を摂って、身体を回復させて、赤ちゃんをお腹の中で育てなきゃならないんだ。…お腹の子供も元気に育ってお母さんの健康も回復したら…必ずここに戻って来るから…それまで頑張れるな?ミーチャ」
アレクセイは息子の両肩を掴んで、その瞳をしっかりと見つめながら今の母親の様子を説明して聞かせた。

「母さん…、お腹に赤ちゃんがいるの?」

「ああ、そうだ。お前…今年の夏にはお兄ちゃんだぞ」

アレクセイはそう言うと、掴んでた肩をポンと叩いた。

「ムッターは…いつもお腹を空かせている僕に食事を分けてくれていて…。僕、僕…ムッターのお腹の中にいる僕の兄弟の分の食事まで食べてしまってたんだ…。だからムッター、具合が悪くなってしまったんだね…。ごめんなさい…ご…めんな…さい…」

父親の腕の中でミーチャがしゃくりあげながら声を上げて泣き出した。

「それは違うぞ。ミーチャ。…あいつは元々小食で偏食なんだ。…だから気にするな。それにな、お母さんというものは、たとえ自分が食べなくても子供に腹いっぱい食べさせることが出来れば幸せなんだ。そういう生き物なんだ。…俺の母さん―、お前のおばあさんだな、もそうだったし、多分あいつの母さんだってそうだったろう。…そうやって子供は母親に守られて大きくなるんだ。…お前、ムッターにそれだけ愛されてるんだ。感謝しろよ~」

アレクセイはミーチャの背中を優しく撫でさすり続けた。

― ミーチャ。俺は今家にあまり帰ることができないから、お前は…母さんが戻って来るまで、ズボフスキーの家に、ガリーナのお世話になりなさい。…ガリーナを手伝って、エレーナの面倒をみて…頑張れるな?

父親のその言葉に、ミーチャが頷いた。

「よ~し、いい子だ。母さんが無事戻って来るまで…頑張ろうぜ、同志。じゃあこれから父さんがズボフスキーの家までお前を送っていくから、すぐ身の周りの荷物を纏めて来なさい」

アレクセイが背中を叩いて息子を促した。

ミーチャは自室に戻ると、鞄を取り出し、学び舎での勉強道具と最低限の着替え、そしてスケッチブックと色鉛筆、ヴァイオリンと楽譜、そしてアリョーシャ―、幼いミーチャに母親が作ってくれた小さな熊の縫いぐるみを手早く纏めると、父親に背中を抱かれてアパートを出た。

アパートにカギをかけて、階段を降りて夕闇に包まれた通りに出る。

― おい、ミーチャ。お兄ちゃんになるって…どんな気分だ?…ほれ、俺もさ、あいつもさ、末っ子だから…。イマイチ弟とか妹って…ピンとこないんだよ。どんなもんだ?

― え~?…まだ分かんないよぉ。そんなの…。でも…エレーナみたいなのかな?だったら可愛いから嬉しいな。ぼく、生まれて来たら可愛がってあげるよ。

― そうか…。おい、その荷物持ってやる。…貸せ。

― いいよ。

― いいから…。ほら。

息子の肩を抱いた親子連れが、ガス灯に照らされた雪の残る通りを行く。ガス灯に照らされた二人の影が通りに長く伸びる。家族三人が肩を寄せ合い、ささやかながらも幸せな日々を過ごしていたアパートが遠ざかっていく。

この部屋に家族が揃うのは実にそれから半年以上もあとの話になることは、そしてそのためにユリウスが大きな危険を冒して、まさに命を懸けた行動の末の再会となるとは、その時はミーチャも、アレクセイも、誰もが想像だにしなかった。
作品名:60 父と子 作家名:orangelatte