子犬のワルツ。
2
ええ、と答えてくれた彼女を伴ってかつて住んでいた、一人で住むには大きい屋敷を訪ねる。
インターホンを鳴らすと見た目はいつも通りのオールバックの彼が出てきて、快く中に入れてくれました。
「急にどうしたんだ、2人で来るなんて」
「いえ、トルテを焼いたのですが2人だと多くて。一緒に食べませんか?」
「ああ、わかった。じゃあ俺が紅茶を淹れよう」
ここまでは安心できました。
少し疲れた顔をして、まだ額にガーゼが貼ってありましたが殆どいつもと変わりはなかったので。けれど、その後彼が持ってきたトレーを見て、私は口を出さずにはいられませんでした。
「ルートヴィヒ」
「なんだ?」
「ここには、3人しかいませんよ」
彼の持つトレーには以前私が買いそろえた細工の美しい茶器が、4つ。
北米の存在感が薄い彼を呼んだ覚えはありませんから、きっと。
誰か、ここにはいない人間の分まで数えてしまったのでしょう。
さて、誰でしょうね。
「・・・ああ、すまない。自分でもおかしくなる。食事を二人分作ったり、コーヒーを二人分淹れたり、風呂も自分が出た後2階に向かって呼びかけそうになる」
「ええ、大丈夫ですよ、ルートヴィヒ。いずれ・・慣れます」
私もそうでした、という言葉は呑み込んだ。
今隣に座る彼女と別たれた時、私はいつも二人分用意して自分で笑ってしまいました。
けれど、それと今とではあまりに状況が違うのです。
その後は普通に何事もなくトルテを食べ、二人で帰りましたよ。
それから割と近くのころ、エリザがまたぼんやりと私のピアノの練習を聞いていました。
一応弁解しておきますが、私たちは仕事を終わらせてからこうして娯楽に耽ってるんですよ。
たまたま弾いていた曲はショパンの『子犬のワルツ』。
一通り終わるとエリザが独り言のように呟きました。
「・・・昔、まだルートちゃんが小さい頃に、4人で演奏会しましたね」
「そんなこともありましたね。あの子が行きたいと駄々を捏ねたから仕方なく、と言ってましたか」
「そんなに嫌なら来なければいいのに、ブラコンが」
「仕方ないですよ。当時にしたら比喩でなくあの子は手中の珠だったんでしょうから」
「・・・その時にルートちゃんが好きだって言ってた曲ですよね、子犬のワルツ」
「ええ。可愛い曲だと、本当に子犬が兄弟で遊んでいるみたいだと言ってました」
「・・・やっぱり、兄弟っていうのは・・・一緒にいるべきだと思いませんか?」
遠い目をしてそう言ったエリザの真意が言葉通りの意味だったとは、思ってません。
今にして思えば、この一言で彼女が決意したのだろうと思い返すことができます。
始まりはゴルバチョフが外交政策の転換を計ったときです。
エリザがそれに乗じて復党政党制を導入し、突然私との国境を開放しました。
もちろん、通れるのはハンガリーのパスポートを持った人のみとのことでしたが、それでも私にはなんとなく。
彼女の考えることが見えてきたような気がしたんです。
当時あの地からはハンガリーへの旅行が許可されていましたからね。
あの地からの民が大勢私たちの国境に押し寄せました。それはもう沢山。
イベント事に乗じて越境する彼らを黙って見送ったのは武装さえしていないハンガリーの警備隊でした。
それからはあっという間でしたよ。
ルートヴィヒも西ドイツ国境に集まるあの地の民にパスポートを与えてしまって。
もうあの地、東ドイツにあまり人は残っていませんでした。
エリザが国境を開放してからわずか半年、1989年の11月に、あの大きな壁は斃れました。
そして。
「・・あら。少し痩せましたか?」
「・・・・まだ生きてたのね」
「・・・あー・・おかえり」
「なんッだよ!!お前らリアクション薄すぎるんじゃねえの!!?何年ぶりだと思って・・!・・ゲホッ・・」
「兄さん!まだ体調が悪いんだろう?無理するな」
それから1年弱。
ようやく、彼、ギルベルト・バイルシュミットは帰ってきました。