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彼女が言った全てのことが

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「イヴァン兄さん」
 彼女の言った全てのことが僕の頭の中を通り抜けていく。真冬のシベリアの吹雪よりも激しく。
 たった一言普通に発しただけなのにエコーがかかる。何回もリフレインする。
「ねえ」
 彼女の漏らした少しの呟きが、彼女の漏らした少しの感嘆が、僕を狂わせる。
「嫌だ」
 僕は狂う。彼女の言った全てのことが僕の頭の中を駆け抜けることによって。極寒のシベリアの吹雪に当たるよりも激しい受難を、僕は味わう。
「兄さん」
「近づかないで。見つめないで」
 彼女に見つめられたら僕の身体はたちまち彫刻のように固まり、思考回路が停止する。
 少し触れられただけで全身が痺れ、力が抜け尻餅をついてしまう。
「どうして? 私はイヴァン兄さんのことがこんなに好きなのに」
「その目で僕を見つめないで」
「兄さん、逃げないで。私を見て」
 義妹の恐ろしいくらいに澄んだ、バイカル湖の青より深い青の瞳。それは僕を一瞬で拘束する。
 粉雪のように白い手でそっと背中を触れられる。力が抜けて尻餅をついた後、心地よくて苦しい痺れが襲う。
「っ、く」
 身体が火照り、鼓動がドラムのように速くなり、息も荒くなる。
「僕はマゾヒストじゃない」
「別に私を押し倒してもかまわないんだけど」
 そうできればそうしたい。とっくにやっている。でも、できない。
「僕は逃げたい」
「兄さんが私に抵抗できないのは、これらのせい?」
 絹のようなミルクティ色の髪の頭に二本の仔山羊のような角が生えてくる。臀部からは黒い悪魔のような尻尾が。
 彼女、言い換えれば僕の義妹のナターリヤは女魔王なのだ。
 ナターリヤが僕を狂わせるのも全てこの魔王の力だ。
 普通、魔王の力は自らの意思で発動しようとしなければ発動しない。
 しかし彼女の場合は僕に対してだけ意思とは関係なく力が発動し、僕を狂わせる。
「だから離れて」
「離れたくない」
「僕をこれ以上狂わせないで」
「狂うって?」
「ウォッカを飲んで酔ったときより、もっとぼうっとして心地がいいんだけど苦痛な状態に、僕をさせないで」
 それは苦痛を伴う極上の快楽、エクスタシー。眠っているような、羊水の中にいるような、しかしとても苦しい心地よさ。
「どうして」
「死んでしまいそうに、心地がいいから」
 それは死の一歩手前の快楽。力が抜け、全身が震え、痺れ、涙腺からは涙がとめどなく零れ、獣のように咆哮する。
「私が嫌いなの?」
「違う。嫌なのは、死んでしまいそうな快楽」
 しかし嫌だと思いつつもそれを求めてしまう。ナターリヤは黒い尻尾を揺らしながら僕を見つめ続けている。
「私は、異性の体液が必要。兄さんがいないと生きていけないくらいに、必要」
「僕をダメにしないで」
 太腿を撫でられる。くすぐったさと共に、マグマのような熱さと真冬の凍てつく海のような寒さに全身が震える。
「どこへも行かないで、イヴァン兄さん」
「せめて、もっと優しくしてよ」
「分かった」
 ぎゅっと抱きしめられる。一瞬、苦痛を伴う感覚はなくなる。でもあの苦しいような、痺れるような感覚が再び恋しくなる。
 その恋しさが苦痛となり、再び僕を襲う。
「君は僕を殺すつもりなの?」
「兄さんがいなくなれば私も生きていけない。殺すはずがない。兄さん、イヴァン兄さん……死ぬなんて言わないで」
 口づけされ、口がふさがれ言葉が出なくなる。やわらかい舌で口腔内を弄られる。
 頭がクラクラして苦しい。ぼうっとする。でも心地よい。ふと下を見てみると唾液が床にポタポタと落ちるのが見えた。
 ナターリヤは相変わらず嬉しそうに尻尾を揺らしている。角を触ってみる。彼女は不思議そうに僕を見る。
 結構可愛いかもしれない。そう思うと自然と苦痛は和らぐ。
「床は固くて嫌だよ、全く」
 僕がそう言うとナターリヤは僕の手を引っ張ってくる。
「どこ行くの」
 そんなこと分かりきっているけれどあえて聞いてみる。
 そこはナターリヤの部屋で、彼女一人で寝るのにはとても大きすぎるベッドがあった。
「イヴァン兄さん」
 バイカル湖の青より深い青の瞳が僕を見つめてくる。気だるく苦しい心地よさが僕を襲う。
「もう殺さなければ、好きにして」
 彼女の言った全てのことが、彼女の行った全てのことが、いや、彼女という存在全てが僕を狂わせる。
 極寒のシベリアの吹雪より、真冬のバイカルの湖底よりも激しく。