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夜の匂いと彼

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夜の匂いだ、と帝人は思った。

 鼻をくすぐったのは微かなアルコール臭だった。考えてみれば、未成年の帝人ならまだしも、彼は成人しているのだから、それくらいはありえる話で、ただ、今まで彼と会ったときに、彼がアルコールを飲んでいなかっただけに過ぎなかっただけだ。
 彼は帝人を見つけると、上機嫌でステップを踏むようにして帝人の元へやってきた。4畳半の畳を敷いた床がぎいぎいと軋む。「何してるんですか、臨也さん」、人の家で。と、帝人は鞄をかけていた肩からおろし、目の前に立った臨也へ問いかけた。ふふ、と笑った後、顔から表情をすとんと落とし、臨也は、遅かったね、と、シンクと自分の間に帝人をはさむようにして、シンクの淵に手をついた。「よってるんですか」、と帝人は聞く。ぐいぐいと近づいてくる臨也の体を両手で突っぱねて、這い出すように其処から逃げた。「酔ってないよ」、と臨也は言う。酔っ払いは総じて酔っていないとこたえるのだと帝人がいうと、臨也は口を窄めてもう一度「よってないってば」、というのだった。部屋の奥に転がった空き缶の数を数えて、帝人は説得力にかけますねえ、と人事のようにいう。実際人事だったが。
 帝人は、来ていた上着を脱いで部屋の隅に置くと、すたすたとシンクに戻ってきて、コップに蛇口から水をそそいで、それを臨也へ渡した。顔色はいつもと同じだし、呂律も回っていないわけではない。足取りは少し可笑しかったような気がしたけれど、いつも子供のように、跳ねて歩くのを見ていたから、それほど可笑しいことではないような気がした。「それ飲んだら帰ってくださいね」、と、コップを受け取った臨也をちらりと目配せした後、帝人は押入れの中から自身の布団を取り出してきた。「寝るの?」、とコップの水を口に含み、半分ほど飲み干したところで臨也が聞いた。ぱたぱたと布団の皺を広げる帝人の背中に問いかける。「そうですよ」
「なんで」
「なんでって、もう眠いからです」
「来客がいるのに寝るのはどうかとおもうけど」
「勝手に入って勝手に酒盛りして勝手に来客気取ってるのは来客っていいません、変態か、犯罪者っていうんです」
「手厳しいね」、こくん、と水をすべて飲み干して空になったグラスを、臨也は静かにシンクへおいた。「手厳しい」。
 帝人はそれに、どうとでも、と短く答えながら、さっさと着替え始めた。酔っ払いの相手をしている暇があれば、寝てしまったほうが得策だと考えた。すぐに着替え終わって、布団にもぐりこむ。それから、ああそうだった、と一旦布団を這い出て、電気をけしてから、携帯のディスプレイの灯りを頼りにまた布団にもぐりこんだ。はあ、とため息がひとつ聞こえてくる。「寝ちゃうの」、と真っ暗になった部屋の奥へ、臨也は問いかけた。「寝ますよ、そりゃあ」、と帝人は答える。はやく出て行ってくれないかなあ、と布団をよせて、ぎゅうと目を瞑った。
 しかし、いつまでたっても玄関のドアの音はしない。気になって、布団をよけて起き上がると、携帯のディスプレイを暗い中で覗き込んでいる臨也が、帝人に気付いて顔をあげた。「寝れないの?」、と微笑んでくる。添い寝してあげようか、と聞いてきたので、死んでください、と答えて、帝人はまた布団へもぐりこんだ。まったく疲れる、堂々巡りだ。ため息をつくと、それに気付いた臨也が、面白そうに「子守唄でも歌ってあげようか」、と囁くように言った。夜の匂いが鼻腔をくすぐり、帝人は眉をひそめる。頼んでもいないのに彼は帝人のそばで、静かに歌いだすのだった。


20100429 夜の匂いと彼
作品名:夜の匂いと彼 作家名:みかげ