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【鋼】ナイフが錆びる前に

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 そこは有彩色を悉く排除したような世界だ。白と黒、その二色だけで構成されている。時折現れる黒い手は白を背景によりその存在を際立たせていた。関節もなくうごめく姿はとにかく異質なもののように思う。とても生き物のように感じられないのに、動きだけが生きている。
 それが扉の隙間から覗くときは、大抵自分ほどかそれ以上の大きさの目玉も一緒にこちらを伺っていた。にい、と到底好意的には見えない様子で目を細めている。けたたましい笑い声に、ときどききゃらきゃらと幼い子どもの声が混じっていた。
 そういえばあれはあの子の声にそっくりだったな、と手持ち無沙汰に爪を噛みながら思う。
「そんなに噛むと爪が割れるぜ」
 背中から不意に声をかけられる。辿っていた記憶の声よりも落ち着いた少年の声だ。表情を持たない彼だけれども、なんとなくからかうような雰囲気だけは感じられた。
「……もう割れてる」
 振り返らず言葉だけを返す。足の爪なんかは自然に割れて落ちたのもあったけれど、手の爪は大概ぎざぎざのぼろぼろになってしまっている。今のように噛んだりしてしまっているからだ。
 ひょいと後ろから見慣れた右手が手首を掴んだ。加減を知らない所為でぎちりと骨が軋んだ。
「いたい」
「止めないからだ、馬鹿」
 暇潰しもさせてくれない。
 目で手首を掴む手を辿り、腕を辿る。こちらは十分に栄養が行き届いているらしく、自分の身体よりずっと逞しくて張りがあった。もしかしたら自分の首ひとつならぽきりと折れてしまうかもしれない、と思う。
 かすかな笑い声が耳元で聞こえた。手首を掴んでいた手が、喉元に滑る。温かい指が軽く食い込んだ。―――望むならやってやれるが。そう言外に告げるような仕草だった。
 それを手で押し留める。振り仰いでみるが、そこに肉を伴った顔はない。ひとのかたちが名残となっているような、朧気な気配があるだけだ。ふっと笑ったような気配がして、あっさりと手は退いた。
 本当はあの黒い手と存在を同じくするものは、随分とひとに馴染んでいた。それはその右腕を得た他にも、何かをもうひとりの彼が落としていったからなのかもしれない。
 それはたぶん自分も同じだった。身体以外にもあの子が落としていったものがこの世界に取り残されている。
 そしてそれは削ぎ落しても問題ないものなのだろうと思う。自然と割れた爪のように。
 ただ邪魔なだけならばいい。けれどもここにあるふたつのこころは、よくないものも一緒に持っている。その殆どが欠けていても、胸の内にわだかまる感情の澱みに気付かないわけではなかった。
 あの子はその真っ直ぐさで、自分のいちばん見たくないところも迎えに来るだろう。そう思う。
 扉の向こうの、相変わらずけたたましい笑い声と子どものやわらかな笑い声が耳を打つ。ひしめき合う黒い手を想像する。そしてその向こう、色彩に満ち溢れた世界を。そこはここのように退屈こそしないだろうが、もしかしたら自分にとってはとてつもなく恐ろしい世界なのかもしれなかった。
 固いがっしりとした手が今度は頭を撫でる。髪が縺れ、絡まる。それが少しだけ厭わしいと思った。……その感触がたぶん心地よい、とも。その辺りの感情はあまりよく分からない。彼もこの撫でる意味を知らないままに撫でている。ただ愉快そうだった。こころはいつも凪いでいる。
 魂を思うことは、そこに小石を落とすことだった。生まれるざわめきを抑えるのに難儀する。元通りの静けさを求めようとする。肉を伴っていてもやはり自分はこちらのものだった。
 それでもここに還る土はない。あの子はそれを知っている気がした。