激情劇場の舞台裏
「亜弓さん、次はなにを?」
「…ああ、ありがとう。そうね、ジントニックを」
持て余したように氷を弄っているのに気づいた麗が気を利かせて、すぐに新しい飲み物が到着する。ほんの少し首を傾げて、麗は亜弓の顔をのぞきこむようにした。
「…こういうお店、苦手かな?」
「え? いいえ、そんなことはないけど」
「そう? なんだか居心地悪そうに見えたから」
かすかに笑って麗は言う。店は確かに亜弓が普段来るような種類の店ではなかったが、それでも落ち着いた良い店だった。気にならない程度に人々のざわめきが漂い、静かにジャズがかかっている。
「いいえ。良い店ね。よく来るの?」
「まあね。皆で打ち上げなんかするときは、もっと騒がしい店だけど」
店の雰囲気にもあった、穏やかで落ち着いた声で麗は話す。北島マヤの同居人であるという彼女と差し向かいで話すのは初めてだった。亜弓が見かけるとき麗は往々にしてマヤと一緒だったし、その場にマヤがいれば、どうしても彼女のほうに気が向いてしまう。言ってしまえば、亜弓にとっての麗の存在はさほどのものではなかったのだ。けれど駅前で偶然会って、麗がにこやかに、亜弓さんちょっと一緒に飲みませんかと誘ってきたとき、北島マヤと暮らしている彼女の話を聞いてみたいと思ってしまった。
「打ち上げ…」
「亜弓さんも参加するだろ?」
「いえ…。あまり大勢で大騒ぎするのは好きじゃないの」
視線を落として呟く。上っ面ばかりを彩った人たちに囲まれているのは苦手だった。なぜだろうか、昔から自分の周りには心から信頼できる人間がいないのだ。
「おや、そうなの」
「マヤさんも…、参加するのかしら」
「そうだね。うちの劇団の打ち上げには、参加してるよ。いっつも大騒ぎして大変なんだ」
「マヤさんって酔うとどうなるの?」
「だいたいは陽気になってたくさん喋るんだけどね。でも笑ってるかと思ったら急に泣き出したりしてさ。もう相手するのが大変!」
「まあ」
おどけた表情で言う麗に、亜弓は思わず笑ってしまう。
「でも、ひとしきり泣いたらそれで寝ちゃうから。おぶって帰って、布団にいれておしまいさ」
「ふふ、いつも大変ね」
「……マヤが酔っ払うと、必ず口にする名前があるんだけど…、誰だかわかる?」
「さあ…。月影先生かしら」
グラスに口をつけつつ、わずかに首を傾げる。マヤが心酔しているのは月影先生くらいしか思い浮かばなかった。けれど微笑を浮かべ、鋭い声音で麗は言う。
「――亜弓さんだよ」
「え……」
戸惑って見つめると、さらに笑みを深くした。まるで憐れむかのような、慈悲に満ちた微笑だった。
「マヤはね、酔っぱらうと、亜弓さん亜弓さんってうるさいんだ。亜弓さんのあの役は素晴らしかった、この役は綺麗だった、すごかった、目を奪われた、どうしてあんなひとがいるんだろう、…毎回同じようなことしか言わないけど」
「………」
胸が疼いて、眉根を寄せた。マヤが亜弓に向ける羨望は、いつも的外れで苛々する。認められることをこそ望んでいるというのに、マヤは真実亜弓を認めてはいないのだ。再び視線を机の上に落とすと、麗の静かで、けれど張り詰めた声が落ちてきた。
「わたしはね、亜弓さん。…亜弓さんのことが、うらやましいんだよ」
「……麗、さん」
思わず顔を上げ、麗の顔を見遣って、しかし亜弓は言葉を失う。羨望の眼差しを向けられることには慣れていた、けれど麗のこれは違う。見えるのは、絶望と憐れみ。ぐっと心臓の奥が痛んだ。このひとは知っている。マヤがおそらく生涯気づきはしないだろう、亜弓の抱える暗い闇色のものを、正しく理解している。
「…こんなこと言うの、失礼かもしれないけど、ちょっと聞いてくれるかな。酔っ払いのたわごとだって思ってくれてかまわないから」
「……ええ」
「ありがとう。…わたし、亜弓さんの気持ちがわかるんだ。きっとマヤよりも、ずっとわたしと亜弓さんは近いんだと思ってる。亜弓さんほどの才能は、わたしにはないけどね。…でも、……だから」
言葉を慎重に選びながら、麗は続ける。グラスを握る手にこもりそうになる力をなんとか解放しながら、亜弓は次の言葉を待った。
「わたしは亜弓さんがうらやましいけれど、亜弓さんにはなれない。…マヤと一緒に暮らすのって、正直ちょっとしんどいんだよ。わたしが亜弓さんだったら、こんな生活耐えられなかったと思う。…マヤはあの通りにぶいから、きっとわたしのこんな気持ちになんか気づかないだろうけれど」
ふ、と苦笑した麗の瞳には、このうえない諦観の色があった。ああ、と亜弓は思う。演劇を志す人間にとって、北島マヤとともに暮らすということはどれほどの重荷だろう。つねに、超えられない壁の存在を突きつけられるということは。これまでさほど気に留めていなかった目の前の存在を思って、亜弓は胸が痛んだ。わたしは今、ようやく理解者を得ようとしているのかもしれない。ああ、でも。
「…そうね、マヤさん、とても鈍感だものね」
「ちょっとあれはひどいよね」
同じように小さく笑って言うと、麗はいつものように明るく笑って返した。強いひとだと思う、けれどだからこそ、今寄りかかってはいけないと思った。このひとの抱える諦観や絶望を、理解はできるが共有はできないのだ。だってわたしは、北島マヤに勝たなければならないのだから。この戦いは、自分のための戦いなのだから。
「…だから、さ。亜弓さんとマヤ、どっちが紅天女をやるのかはわからないけど、純粋に、その舞台を楽しみにしてるよ」
「ええ。……ありがとう」
滲むように微笑して、告げる。麗は僅かに驚いたように目を丸くしたのち、ふわりと微笑んだ。自分が勝つことによって、なんらかの希望をこのひとに与えられるのならば、それはなんと喜ばしいことだろう。たとえそれが都合の良い錯覚だとしても。この戦いがどこまでいっても孤独であることはわかっていても。戦おう、わたしは、自分のために。
麗が手にしていたグラスを持ち上げ、笑う。同じようにグラスを掲げて、亜弓も微笑む。
「じゃあ、改めて。亜弓さんの健闘を祈って」
「乾杯」