この世界のぜんぶ
うちの離れに、宇宙船がある。
正確にいえば、宇宙船ができかけている。ひとり乗り用の、小さいやつだ。
作っている少年は、綾部という。
いきなり「離れを貸してください」とやってきたのである。
広いうちだけど、敷地内に住んでいるのはおれだけだ。べつに貸すのはかまわないけど、なにするの? 尋ねると、綾部は答えた。
「船を、作るのです」
魚つり用の小船かなあ、くらいに思っていた。ここは海が近いし、それならおれも乗せてもらえるかなあ、ぐらいに。
様子がなんだかへんだと思ったのは綾部が出入りするようになってすぐだ。
いっこうに、帰ろうとしないのである。昼も夜も気にせずに、こちこち作業をつづけている。
年のころがたぶん自分とかわらないくらいの少年なので、ちょっとばかり心配になって「うちにかえらないの」と尋ねたら、綾部はさらりと「家は、処分してきました」と答えた。
「処分って」
「みんな死んだので」
あ、ここの使用料、払ったほうがいいでしょうか。綾部はつぶやいて、ポケットから通帳を取り出す。
お好きなだけ。
開いて差し出された通帳には、なにやらゼロがたくさん並んでいた。いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん、せんまん、・・・・・・
「・・・・・・いや、いらないよ」
「そうですか」
「そのかわりと言っちゃなんだけどさ、提案があるんだ」
「なんでしょう」
「メシ、これからはいっしょに食べよう」
「・・・・・・メシですか」
「うん」
毎食一人っていうのもなんだしね。
綾部はそこで、たったいま気づいたみたいに(事実、ほんとうにたったいま気付いたんだろう)尋ねてきた。
「そういえば、この家、ほかに人は」
「いないよ」おれはこたえる。
「みんな死んだ」
それから、一緒に食事をとるようになった。おたがい金はあるというのに、ぜいたくしなかった。豪華な食事というものに、おれも綾部も興味がなかったからだ。ちかくで魚を買ってきて焼いたり、コンビニべんとうを買ったりして食べた。
一緒にいても、あんまり会話はなかった。綾部は綾部で庭のむこうの海を眺めているか船のことを考えているか(これは推測だが)だったし、おれはおれで、どうやったらうまいぐあいに魚を焼けるのかということばかり考えていた(皮をこがして中は生、ということが多かったので)。
「われわれは、気が合いますね」
そういう生活をくりかえしていたある日、綾部は呟いた。えらく満足げな顔つきに見えた。
「うん」 まったくそのように思われたので、頷いた。
「たぶんおたがいに、ひとりでもじゅうぶんに楽しめるタイプなんだよ」
「なるほど」
それは気が合うはずですね。満足げな顔つきのまま、綾部はふたたび目線を海のほうにもどした。口から魚のしっぽがはみ出していた。
―――でっかい地球儀。
はじめてそれを見たときの感想は、これだった。離れの中には、ばかでかい球体ができかけていた。人がやっとこふたり入れるんじゃないかってサイズのやつ。木片で固定された空洞の球体、正確に言えばまだ半球、地球儀で例えると南半球だけ。綾部はその半球の内側から、こんこんと球体を組み立てていた。
「それ、なに」
「宇宙船です」
綾部は槌をふるいながらこたえた。
なんてこった、船は船でもそれはまさに宇宙船なのだった。
▽
「なんでまた、宇宙船なんか作ってるの」
機械いじるのが好きなの?綾部は首をふる。「どっちかっていうとにがてです」
宇宙が好きなの?また首をふる。「わかりません」
「じゃあ、なんで」
「この世のぜんぶを見たかった」
「・・・・・・」
それならチケットとって飛行機に乗って、世界一周するか宇宙旅行すればいいのに。そっちのほうがずっと手っ取り早くて確実だろ?
おれが尋ねても、綾部はやっぱり首をふった。
「ひとりがいいのです」
半球が四分の三球になり、もうすこしでまん丸になるというころに、おれはそのなかに入れてもらった。スーパーファミコンみたいな古ぼけた機械がひとつ、顔の大きさぐらいの窓がひとつ、椅子と毛布に、人ふたりがやっと座れるくらいのスペース。それが綾部の船だった。
「はじめは、たんなる船にしか思ってませんでした」
「うん」
「でも、いまはちがいます。この船は、ぜんぶなのです」
「どういうこと」
「そのままですよ。玄関でありリビングでもあり台所でもある」
もっと哲学的な意味あいを期待していたおれはなんとなくがっかりして、でもまあそういうものだよなと頷いた。確かにいったん旅になんか出ようものならここ以外に居どころがないんだから、まさしく「ぜんぶ」なんだろう。
「それから、寝室でもあるな」
おれが付け足してやると、綾部はじいとこちらの眼を見て、頷いた。
「そう、その人間がどう意図するかで様相をかえる」
そして目をほそめ「つまるところ私の身体のようなもの」と言い足して、おれの背に腕を回した。
綾部はとつぜん出て行った。
ある日、どん、と大きい音がしたので見に行ったら、もうどこにもいなかった。
部屋の中のものは、散らかった状態でぜんぶ残されていた。そうだな、作業中にコーヒーを飲みに立ったときの状態っていえばわかりやすいかな。そういう状態だった。
そうだ、ぜんぶだ。工具も上着も食べかけのビスケットもぜんぶそのまんま、最後に見たままだった。部屋の真ん中にあったはずの宇宙船が、すっぽりなくなっている以外は。
まったくもう声くらい掛けていけよ。呟いてはみたものの、綾部がそんなことしないのは重々わかっていた。なにしろわれわれは、ひとりでじゅうぶんに楽しめるタイプなのである。
綾部がもう二度と帰ってこないということも、これまた重々わかっていた。まったくきれいに抜け出したものだ、ザリガニが脱皮したみたいに、カラだけのこしてきれいに消えた。
知ってるだろ、脱いだ皮は透明でずいぶんきれいだけど、脱いでしまった当人にとってはもう、全然意味のないものなんだ。
絵葉書でも送ってくれないかな、そこからじゃ出せないかな。でももし出せたとしても、おまえはなにかを見て感じたことを人につたえるタイプじゃない。どんなにすばらしいものを見つけても、じっと見つめて通り過ぎる人間だよ。そうだろ?
なあ、その宇宙船からなにが見える?
おまえの見たかったものが、見えている?
(この世界のぜんぶ/20100429)