胡蝶の夢、いつか見た悪夢
よく他人がこんな夢を見たの、あんな夢を見たのという話を聞くが、アカギは夢を見たことがない。
いや見ているのかもしれないが、起きた時には忘却の彼方だ。
しかしそれを特に気にしたこともない。どうせ夢は夢。『うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと』などとのたまった流行作家もいるらしいが、夢なんて自分の頭の中だけで起きているものに真などあるものか。そんなものは何が起きようとも自分に都合のいい思い込みだ。
真実とは、魂を削り、他者と凌ぎ合う勝負の中にこそあり、それ以外はその勝負と勝負の繋ぎに過ぎない。他の人間にとっては違うのかもしれないが、少なくともアカギの真実はそこにしかない。
だから今自分が夢を見ていると気が付いた時、アカギはなるほど、自分も夢など見るのかと感心した。
その夢は空っぽだった。
どこまでも何もなく、地平線も空さえもなく、ただただ空間が広がっていた。
その空間にアカギはひとり放り出されている。
「夢ってのもつまんないもんだな……」
呟きはどこにぶつかることもなく漂い、消えていった。
「それはお前がつまらない人間だからだ」
どこからか応えがあって、アカギはそちらを向いた。そちらには自分と寸分たがわぬ姿をした男がいた。
「オレがつまらない……そう言われりゃ、そうかもしれないな」
アカギが素直に認めると、もうひとりのアカギは面白くもなさそうに アカギの前に立った。
「勝負のひりつく熱の中でしか息ができないカタワものなんだよ、お前は。何もないのさ。何もない。夢で見なけりゃならないようなものを、オレは何も持っちゃいない」
「あぁ、そうだな」
ひどい言われようだが、反論する気にはなれなかった。確かに自分は何も持っていない。持たないようにしてきた。
「こうして同じ地平に並び立てるのは、オレ自身だけ。それなのに、どこかで生を感じさせてくれる相手に出会えるんじゃねえかと思ってやがる」
くくく、ともう一人のアカギは笑って見せた。
その途端に景色が一変する。どこかの工場、あるいは厨房、いつか確かに見たアカギが普通を感じ取ろうと努めた職場たち。いつか見た人々の立ち働く場所。そこには見覚えのあるような人々がアカギに目を向けることなく働いていた。
夢だからなのか再現は正確でなく、過去の職場が入り混じって溶けあっていた。支払われるはした金に文句を言いながらも懸命に生きていた人々は、近くにいるのに遠くに見える。
彼らがこちらを向いても、顔が認識できない。
その感覚は現実でも同じだった。
多分笑ったり泣いたり、それなりに他の人々にも向けられていたような感情は、アカギにも向けてくれていたのだろう。だが、アカギはそれらの一切を必要としなかった。
むしろ気遣いは重く煩わしかった。
そのことを寂しいと思わねばならないのだろう、ということは理解できた。だが、それらの機微を掬い上げる作業は面倒なだけだった。勝負の時のあの濃い一瞬、びりびりと肌を焼かれるような緊張の他は、水で薄められた酒のように味気なかった。
だから、こうして夢で見られるほどに過去が自分の中に残っていたことの方が驚きだった。
「赤木さん」
横合いから声が掛けられる。驚いてそちらを見る。そこには治の姿があった。
「……治」
声を掛けたとたんに風が吹き、治の姿は風に撒き散らかされて消えた。手を伸ばすこともなく眉を顰めて、そうかこれは夢だったと納得する。
「赤木……」
さらに振り向けば、自分に麻雀を教えてくれた彼の姿があった。
「南郷さん……」
けれど、彼の姿もまた風によって吹き散らかされてしまう。
気が付けばまた何もない空間に一人だった。
「……手を、差し伸べてくれた人もいたのにな」
もう一人の自分が背後から忍び寄って静かに囁く。
差し伸べられた手が重かった。そして、もし必要とあらば、差し出された手の持ち主でさえ、自分は賭けることができてしまうだろう。そういう人間なのだ。そういう風にできている。
だから、自分は誰の手も取らない方がいい。
「ほら、見ろよ」
赤々と燃える山にのたうつ大蛇。身を焼かれているのはこれから戦う相手、鷲巣巌だ。
仰木から渡された写真は古く不鮮明で、まだ会っていない鷲巣の姿ははっきりとはしなかったが、情報から得られる彼の生涯の輪郭は鮮烈で鮮明だ。
だからより一層のこと、彼は死すべきだと思う。
誰からも理解を得られない、自分と同類の男。
生きながら焼かれる苦悶に耐えられなくなり、老醜を晒し始めた異端。
鷲巣について考えることは、とりもなおさず自身について考えることに等しかった。
枠外に生きる己の空虚を他者によってしか埋められないのなら、そしてその穴が他人の命を奪ってなお埋められないのなら、死すべきだ。
アカギにとて、その程度の良識はある。いや、そうあってほしいのだ。今はまだ、他者を踏みつけにせんとする相手からむしり取ることでアカギの均衡は保たれている。
だがもし、己が誰彼構わず牙を剥くような獣となり果てたなら、何か天罰のようなものでもあって、自身を罰してほしい。そうでなければあまりに理不尽ではないか。
己のような強さを持ちえない人間が。毎日を丁寧に生き、積むことを厭わない、アカギには到底できないことを額に汗して成し遂げる人々が、何かのきっかけで自分のような不具者から傷つけられるようなことはあってはならない。
鷲巣の絶望は、そう遠くない未来、自身が得るだろう絶望に似ているのだろう。
自分に似た形の人間を見つけられないだろう予感が、自分を狂わせないとはアカギにも言い切れない。
市川が自分と出会ったように、あるいは鷲巣が自分と出会うように、いつか自分も誰かに出会うことはできるのだろうか。
そんな保証はどこにもない。
だからいっそ、本気で殺しに来てくれと思う。
もうアカギも生きることに倦み疲れているのだ。
あるいは、鷲巣がアカギに殺されてくれる、完全に破滅してくれるというのなら、まだアカギも希望が持てる。
いつかは自分にも殺す者が現れてくれると、まだ信じられるからだ。
のたうつ大蛇はいつの間にか自分の顔をしていた。
そうだ、それでいい。
こんな夢も目が覚めれば忘れるのだろう。
ひょっとしたらこんな夢はずっと繰り返し見ているのかもしれなかった。ただ忘れているだけで。
今夢を見ている自分が現なのか、目を覚まし夢など見ないと思っている自分が現なのか、それは誰にもわからない。
胡蝶の夢、いつか見た悪夢。
作品名:胡蝶の夢、いつか見た悪夢 作家名:千夏