師任堂
あの日、そなたは私の元に来ただろう。
私に優しく触れていっただろう。
そなたの温もりと、そなたの匂い、すぐに師任堂だとわかった。
だが、瞬時にそなたの気配は掻き消され、どこを探そうと居はしなかった。
私の姿に、幻滅したか?。
仕方が無いだろう?、そなたが居らぬのだ。
この世界、朝鮮にいては知らぬものばかり。
目を奪われ、その色彩、その技法に没頭した。
しかし、傍に悦びを分かち合う、師任堂がいないのだ。
どんなに素晴らしい絵や風景も、これ程味気ないものだとは。
あの金剛山で、私達の魂は一つになったのだ。
あの幸せは、終生忘れない。
そしてあの痛みと辛さは、死しても身体から離れぬだろう。
あの三日間、共に同じ光を見て、それは幾多の紙の中に込められた。
金剛山の美しい光景を、心と共に紙の中に写したのだ。
朝の光、照らされる山肌、夕景、降り注ぐ星々、
山の樹々、そして全てを洗い流す、雨。
全てが美しく、その光景を切り取るそなたの美しさ。
絵を描く姿勢は昔から変わらぬ。
まるでこの世の時が止まってしまうようなのだ。
同じ光を共に写していると、昔もそうだったのだと思い出す。
いや、この金剛山では、あの日々以上だった。
魂が呼び合い、互いに結ばれ、もう離れる事は無いのだと思った。
なのに、私に黙って山を降りたな。
ただ降りただけでは無い。
一枚の絵だけを残し、その他の絵と画材に火を付け、去って行った。
師任堂の覚悟が分かった。
もう、絵は描かぬという決意。
私との全てを断ち切るという覚悟。
師任堂、そなたは私にどれ程残酷な事をしたのか。
共に寄り添うことは出来なくても、描く悦びの中にそなたがいるというだけで、それだけで私は一人でも生きてゆけたのだ。
絵を描かぬそなた、ただ日々に耐えるだけのそなたを感じ、私は、どうやって生きていけば良いのだ。
顔料の様に一つに繋がり混ざり合い、分けることの出来ぬ心。
鋭い爪を持つ魔物に、むしり分けられるような痛みと苦しみ。
どう耐えろと。
その後、どうやって山を降りたのか、よく覚えていない。
何故なのか、、、これだけの仕打ちを受けて尚、私の魂はそなたから離れる事が出来ぬのだ。
そなたの気持ちも立場も心も良くわかる。
数々の辛い障壁に立ち向かい、全てを越えて来たそなたが、これだけはどの山の嶺よりも高く、そなたには越えられぬという事も。
優しい師任堂は、人を越えてゆくことが出来ぬのだ。
それが弱い人々ならば、尚の事。
あの雲平寺で、弱き流民や僧侶が斬られてゆくのを見たという。
その事が、そなたの越えようとする心を抑えてしまうのか。
いや、違うな。
それが師任堂という心の、根幹なのだ。
越えることも描くことも、止めたそなた。
諦めたのでは無い、止めたのだ。
、、、私の心に添う事も、、、。
私の身一つ、生き長らえてなんの意味があろう。
そなたの事が守れるのならば、私はそれで良いのだと思った。
だから、殿下の元に死にに行ったのだ。
殿下の狙いは私だけなのだから。
だが、殿下は更に残酷だ。
そなたに、私の死の枷をはめると言う。
生涯、私の死の負い目を受けさせると。
そしてその残酷さは、私にも。
私は何の希望も無いのに、生を望まねばならなくなった。
求めたとて、もう私にはどうにもできぬ。
ただ、牢で与えられる死を、待つのみなのだ。
だが、死地へ向かう私を、あらゆる友が救ってくれた。
そして師任堂。
入り江に待つ、そなたの姿。
なぜ、そうも強いのだ。
私に幸せになれと。
そして私には先に進むしか道が無い。
そなたが苦しまぬ為に、私はこの国を去るのだ。
そなたは私に背を向け、決して私を見ようとはしなかった。
どれ程舟が進んだか、、、川が深くなり、私が戻れなくなってようやく振り返り、顔を見せたな。
そなたの心が平穏でないのは良く分かっていた。
心を隠し、何でもないように強がっていたのだ。
その、微笑みが全てを語っている。どれだけ強がって耐えているかが、手に取るように分かるのだ。
そなたがずっと、私を、守っていたのだと。
一見、穏やかなその表情に隠された、私への激しい情火。
分かるのだ。
私の心にも同じ情火があるのだから。
私が、そんなそなたの姿を間近に見れば、きっと一緒に連れ去ってしまっただろう。
そして、そなたは後悔をし、そなたを見て私が後悔するのだ。
最後に互いに心に焼き付けたその姿。
あの一編の詩にあったように、互いの魂は重なり合い、薄く伸ばされたのだと言い聞かせたが、私の心は埋められず。
ただ私が生きている事が、そなたの希望になるのなら、生きていようと。
私の周りの光景を、私の魂の中のそなたが見ているのなら、絵をかこうと。
必死で歩き、生きて、描いていたのだ。
そなたの希望の為に、朝鮮から遥か遠いこの地まで来たのだ。
だが、私の虚無感は埋められず、暮らしは荒んでいった。
そなたの身に何があったのか、すぐに分かった。
痛かったか?苦しかったか?辛かったか?
、、、、恨めしくは無かったか?。
無いだろうな。
師任堂なのだ。
置かれた場所を受け入れて、善良さを失わず、常に人を慈しんだのだ。
そして、輝き続けたのだ。
私が生きる事の意味も終わる。
後世の人々は、李巌と師任堂の物語など永遠に知らぬだろう。
私の遺したものと、そなたの遺したもの、
繋ぎ合わせたら見えるだろうか。
物語の終り、
荒んでいた私の傍に、そなたがずっといる事が、、、。
どれだけ互いの心が癒され、そして満ち足りている事が、、、。
私とそなたの魂が、また一つになった事が、、、。
、、、師任堂、、、、
李 巌