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第二部12(85)ゲルトルート

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「…ダーヴィト…」

「何て…危ない事をしたんだ…。こんなに傷だらけになって…!」

数日後、落ち着いたマリア・バルバラを見舞ったダーヴィトが、ベッドから弱弱しく差し出したマリア・バルバラの手をギュッと握る。

「…ごめんなさい…。貧すれば…鈍する…って、本当ね…」

マリア・バルバラの怪我は軽くなかった。

肋骨と手の骨折に、全身打撲。
奇跡的に命に別状はなかったが、暫くはベッドから起き上がることのできない重症だった。

「アブラハム・ウント・レヒナー商会などという会社は…登録されていなかった。あれは…あなたをおびき出すための罠だった。今回の事と…それから前回の火事の事は…誰が仕掛けてきたのかは分からないが、僕等…、いや、あなたと、それからあなたの周りで色々嗅ぎまわっている僕を排除しようとする人間の魔の手が及んでいるのは、これではっきりした。ねえ、マリア。ここにこのまま…アーレンスマイヤ家にい続けるのは、あまりに危険だ。…もし、あなたさえよければ、ミュンヘンの僕の家に、あなたを保護させるように両親に…」

「だめよ…。ダーヴィト」

そこまで言ったダーヴィトの言葉を、マリア・バルバラが苦しい息で制する。

「だめ…よ。それは。あなたと私は…まだ、そういう関係では…ないわ。そういうこと…は、ちゃんと段階を…踏んでからでない…と。それに、私が…今、この家を離れる訳には…いかないわ。大丈夫…。執事もいるし…。ね…?」

そう言うと、無事な方の手で項垂れるダーヴィトの髪をそっと撫でた。

「頑固なんだね…。それも…行儀に厳しい…お母様の、躾の賜物…なのかな?」

泣き笑いのような顔で軽口を叩いたダーヴィトに、

「そうね…。そうかもしれないわね」

とマリア・バルバラも微笑みを浮かべた。

― これから…、暫くの間、私達の連絡係として、この子に伝言を託すことにするわ。…この子は、ゲルトルート。…ユリウスの、傍付きの小間使いだった子よ。

帰りがけにマリア・バルバラが一人の小柄な小間使いをダーヴィトに引き合わせた。

「ゲルトルート・プランクといいます。以後お見知りおきを」

「…マリアのこの様子を見て分かる通り、君にも危険が及ぶ可能性が高い。…もし、嫌ならばこの務めを断わってもいいんだよ?」

引き合わされたゲルトルートにダーヴィトが優しく決意を確かめる。
控えめに顔を伏せていたゲルトルートと名乗るその小間使いがその時屹と顔を上げた。

「身の程知らずと…お思いになるかもしれませんが、ユリウス様はわたくしの初恋の方でした。そのユリウス様のご友人の方のお役に立つのならば、このゲルトルート、精一杯お役目を果たしたく存じます」

その少女の目に浮かんだ決然とした光に、ダーヴィトは

「分かった…。ありがとう。ゲルトルート。そうだね。天使を恋い慕うのは…誰にもとめることが出来ないよね」
― でも、本当に危険が伴うから、今後僕も、君の身の安全までは保障することは出来ないんだ。…だから、これからは、自分の身の安全と命は自分で守ってもらうことになると思う。くれぐれも注意を怠らず、もし危険が及んだら、これを使うんだ。

そう言って、ゲルトルートに小さなスプレーの小瓶と、掌より少し小さなボールを手渡した。

「これは…?」

「これは催涙スプレーと催涙玉だ。実は僕の実家の工場が作った試作品でね。まだ商品化はしていないけれど、今度の一連の出来事を受けて、護身用に取り寄せたんだ。これを肌身離さず持っていて、もし襲われたりするようなことがあったら、このスプレーを吹き付けるか、この玉を地面に力いっぱい投げつけるんだ。その時にくれぐれも自分が吸ったりしないように、必ず自分の口と鼻をハンカチかエプロンで保護するんだ。いいね?」

ダーヴィトがスプレーと玉の扱いをゲルトルートに説明する。

「分かりました。…お借りいたします」

ゲルトルートが静かにうなずいて、ダーヴィトから手渡されたものをエプロンのポケットにしまった。

「それから…」

「?」

「今後この役目から下りたいと思ったときは、遠慮なくすぐに僕かマリアに言うんだよ。君が途中でおりても僕等は何ひとつ君を責めたりしないから」

ゲルトルートの黒い瞳を覗き込んでそう言ったダーヴィトに、彼女は首を横に振った。

「いいえ。―おりません」

「そうか…。じゃあ、これからよろしくね。これから君は…この件に関しては僕等の【同志】で、対等な関係だ」

そう言ってダーヴィトは、彼女に握手の手を差し出した。

その手をゲルトルートが固く握り返した。