第二部21(94) 潜伏
そのままマリア・バルバラの部屋の続き部屋になっている衣装部屋に潜んでその時を待つ。
刑事の部下が郵便配達夫や出入の業者に扮して、随時変わった事があれば手紙にして執事に託していく。
「あの次女は…つい最近になって、旅券を申請している。それと船会社に、ハンブルグ発ニューヨーク行の船の一等客室の切符を予約している。…出発は一月後だ。ふん。大方、長女がくたばって、この家の遺産の管理人に収まったら…もうこの家にもこの街にも用なしって事か」
― ほらヨ。
刑事が部下から上げられた報告書をダーヴィトに回す。
「ダンケ」
ダーヴィトがその報告書に目を落す。
「しかし、なんだな。お嬢様のクロゼットに潜んで機を待つと言われたから…てっきり洋服ダンスに押し込まれて何日も過ごす羽目になるのかと思ったら、ここならば俺のアパートの部屋よりも寧ろ広くて快適だぜ。…タバコが吸えないのがツライとこだがな」
「…なら、やめる?」
刑事に寄越された報告書を読んでいたダーヴィトにそう言われ、
「ほざけ…。兄ちゃんこそ、学校は大丈夫なのか?」
と返した。
「今は試験休みだよ。…僕は間もなく…、この6月でゼバスを卒業して・・・・9月からウィーンの大学へ進学するんだ。だから、それまでにこの家の事を…決着つけておきたいんだ。こんな陰謀渦巻く中にマリアを残してレーゲンスブルグを去る事なんて、断じて出来ない」
「ほう…。遠恋か。そりゃ残念だな」
「休暇の度に、この街に戻って来るさ。刑事さんこそ…こんな事ばっかしてて、家族は心配してるんじゃない?」
「俺は…独身だ。家族というものは…生れてこの方持ったことねえな。…天涯孤独ってやつでね…」
大した感慨もなく、刑事が答えた。
「そう…なんだ」
「兄ちゃんは出身はどこだ?寄宿舎に入ってるってことはこのレーゲンスブルグの人間じゃないよな」
「実家はミュンヘン。刑事さんは?」
「俺か?俺も生まれと育ちはミュンヘンだ。ミュンヘンの孤児院で育った。…そこで、慈善活動に熱心だった、フォン・ベーリンガー夫妻と知り合った。…ノブレス・オブリージュって言うのか?恵まれない人間に手を差し伸べる…てやつだ。俺は生まれた時から親の顔も知らず、えらくひねたガキだったが、そんな俺にも、温かな手を差し伸べてくれたんだ。…特に夫人のエレオノーレ様はな…、俺の事を「皮肉屋だけど頭の回転の速い聡い子だ」と…目を掛けてくれて、警察学校へ進むよう…尽力してくれたんだ。俺がゴロツキにならずに、ひとかどの刑事としてこうして今人生を送っているのは…あの方たちのおかげだ。…あの方たちは貴族として…当然の慈善を施しただけかもしれない。だけど、俺にとっては…それでも…。彼らは特別な存在だった。神にも感謝した事のない俺にとって、あの夫妻はまさに神様だった。…神様を、虫けらのように踏みにじられたら…お前さんどうする?そのまま泣き寝入り出来るか?…俺は出来ないね。だから…、あの夫妻を襲ったあの事件について徹底的に調査して…一生かけても真実を明らかにしてやろうと思った。…そして今、やっとその千載一遇のチャンスが巡って来たんだ。…お前さんに、そんな俺の気持ちが分かるか?」
目を爛々と輝かせてそう語る刑事の横顔に、ダーヴィトは初めて、彼の心の奥に30年間マグマのようにふつふつと滾り続けた激しい怒りと悲しみを、目の当たりにしたのだった。
作品名:第二部21(94) 潜伏 作家名:orangelatte