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愛早 さくら
愛早 さくら
novelistID. 6143
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桜幻想

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大いなる退廃の先で。
 君がそこに横たわる。
 降るように注ぐ花弁と。
 薄汚れた土の欠片。
 どれほど穢そうとしても、何処までも清らかな君の唇に触れた。
 真っ赤な果実は柔く指に沈んで、俺はただ、その甘さを思うのだ。

「シズちゃん」

 目を覚まさない君の薄い瞼の向こう側で。
 例えば俺は、どんな風に映っているのかと思うと。
 ただ、それだけで。


++++
桜幻想
+++++


 花が咲いていた。
 桜の花だ。
 恐ろしいほどに咲き誇る、降るような花弁の中で眠る君を見つけた時、俺はその光景をぐしゃぐしゃにしたくてたまらなくなった。

 夜も遅い時間。
 淡い街燈に浮かび上がる白。
 それは、昼間は青い空に映えて、薄紅の花弁を散らせる花。
 彼はその下で眠っていた。
 何がどうなってこうなったのか、小汚い公園の地面に横たわって、花弁にうずもれるようにして眠っている。
 ともすれば死んでいるのではないかとすら思えるのに、緩やかに上下する胸の呼吸が、彼がただ、眠っているだけだということを教えてくれて。
 俺はそっと、彼を見下ろした。
 花弁に溶けるような金糸。
 身に着けているものも、お決まりのバーテン服でしかないのに、黒いベストの端から、どうにも夜に溶けていきそうで。
 むしゃくしゃする。
 むしゃくしゃするのだけれど、何が出来るはずもない。
 真っ白な肌がぼんやりと、桜の花弁との境界を曖昧にしていた。

「全く。無用心なんだから」

 小さくこぼした言葉は、自分でも驚くほど微かで。
 それはすなわち、今の自分の言葉を聞く者など、自分以外にはいないということだ。
 口の端に浮かんだ笑みは自嘲。
 頬に濃く影を落とす、長い睫毛を思った。
 薄暗い光源の中でも、輝くばかりに浮かび上がる彼自身の白さと微かの花片。
 その中でとりわけ、彼の唇ばかりが赤い。
 膝をついて、すぐ傍へしゃがむ。
 ついとその唇へと指先で触れた。
 柔く、生温い、確かな人の体温。
 薄い唇は少しかさついて、だけど充分に柔らかく。
 何度も、汚してきた唇だった。
 俺自身の唇で。
 もしくは、薄汚い性欲で。
 何度も。
 何度も何度も。
 汚して汚して、貶めて。
 だのにいつまでも清純で清らかな、穢れのない唇だ。
 こうして触れることさえ、どこか躊躇われ、だけど触れずにもいられない。
 赤い唇。
 赤い赤い唇。
 眩むように白く暈ける彼の全ての中で閉じた目蓋、その向こうの意志の強い眼差しが見えないと、こんなにもそれだけが際立つ。
 赤だ。

「シズちゃん」

 零した彼の名は苦さに満ちて、だけど儚くて。
 やはり自分の口の中だけで溶ける。
 そっと。
 今度はその赤い果実に、自分のそれで触れた。
 ふわりと立ち昇るように香るのは桜の花片の匂い。
 春先の風にまぎれ、少し煙草の苦さが混じった甘い甘い彼の寝息だ。
 彼は死んだように眠っていた。
 桜の中で。
 ただ。

「俺は、君のことが」

 その先を、言葉に載せることは出来なくて、噛み締めるように目蓋を伏せる、強く。
 きつく。
 俺自身の心ごと。
 どうにかなってしまえばいいのに。
 そんな埒のないことを思って。
 ただ、それだけで。

 今は閉じた、君の薄い目蓋に。
 俺はどんな風に映っているのだろう。
 ただ、それだけを思った。

 降るような薄紅の花片の下で。
 少し冷たく肌寒い風に吹かれて。
 彼を起こすこともなく、来ていたジャケット一つ、その身にかけるでもなく立ち去る向こう側で。
 彼の頬を流れた一滴の光を。
 俺は知らないままで。
 ただ、花片を、噛み締める。

 それは、彼の唇から移った彩なのだった。


Fine.
作品名:桜幻想 作家名:愛早 さくら