桜幻想
君がそこに横たわる。
降るように注ぐ花弁と。
薄汚れた土の欠片。
どれほど穢そうとしても、何処までも清らかな君の唇に触れた。
真っ赤な果実は柔く指に沈んで、俺はただ、その甘さを思うのだ。
「シズちゃん」
目を覚まさない君の薄い瞼の向こう側で。
例えば俺は、どんな風に映っているのかと思うと。
ただ、それだけで。
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桜幻想
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花が咲いていた。
桜の花だ。
恐ろしいほどに咲き誇る、降るような花弁の中で眠る君を見つけた時、俺はその光景をぐしゃぐしゃにしたくてたまらなくなった。
夜も遅い時間。
淡い街燈に浮かび上がる白。
それは、昼間は青い空に映えて、薄紅の花弁を散らせる花。
彼はその下で眠っていた。
何がどうなってこうなったのか、小汚い公園の地面に横たわって、花弁にうずもれるようにして眠っている。
ともすれば死んでいるのではないかとすら思えるのに、緩やかに上下する胸の呼吸が、彼がただ、眠っているだけだということを教えてくれて。
俺はそっと、彼を見下ろした。
花弁に溶けるような金糸。
身に着けているものも、お決まりのバーテン服でしかないのに、黒いベストの端から、どうにも夜に溶けていきそうで。
むしゃくしゃする。
むしゃくしゃするのだけれど、何が出来るはずもない。
真っ白な肌がぼんやりと、桜の花弁との境界を曖昧にしていた。
「全く。無用心なんだから」
小さくこぼした言葉は、自分でも驚くほど微かで。
それはすなわち、今の自分の言葉を聞く者など、自分以外にはいないということだ。
口の端に浮かんだ笑みは自嘲。
頬に濃く影を落とす、長い睫毛を思った。
薄暗い光源の中でも、輝くばかりに浮かび上がる彼自身の白さと微かの花片。
その中でとりわけ、彼の唇ばかりが赤い。
膝をついて、すぐ傍へしゃがむ。
ついとその唇へと指先で触れた。
柔く、生温い、確かな人の体温。
薄い唇は少しかさついて、だけど充分に柔らかく。
何度も、汚してきた唇だった。
俺自身の唇で。
もしくは、薄汚い性欲で。
何度も。
何度も何度も。
汚して汚して、貶めて。
だのにいつまでも清純で清らかな、穢れのない唇だ。
こうして触れることさえ、どこか躊躇われ、だけど触れずにもいられない。
赤い唇。
赤い赤い唇。
眩むように白く暈ける彼の全ての中で閉じた目蓋、その向こうの意志の強い眼差しが見えないと、こんなにもそれだけが際立つ。
赤だ。
「シズちゃん」
零した彼の名は苦さに満ちて、だけど儚くて。
やはり自分の口の中だけで溶ける。
そっと。
今度はその赤い果実に、自分のそれで触れた。
ふわりと立ち昇るように香るのは桜の花片の匂い。
春先の風にまぎれ、少し煙草の苦さが混じった甘い甘い彼の寝息だ。
彼は死んだように眠っていた。
桜の中で。
ただ。
「俺は、君のことが」
その先を、言葉に載せることは出来なくて、噛み締めるように目蓋を伏せる、強く。
きつく。
俺自身の心ごと。
どうにかなってしまえばいいのに。
そんな埒のないことを思って。
ただ、それだけで。
今は閉じた、君の薄い目蓋に。
俺はどんな風に映っているのだろう。
ただ、それだけを思った。
降るような薄紅の花片の下で。
少し冷たく肌寒い風に吹かれて。
彼を起こすこともなく、来ていたジャケット一つ、その身にかけるでもなく立ち去る向こう側で。
彼の頬を流れた一滴の光を。
俺は知らないままで。
ただ、花片を、噛み締める。
それは、彼の唇から移った彩なのだった。
Fine.