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第三部7(107) モラトリアム

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ポスキアーヴォを発つ前に、父が日がな一日過ごしているという湖へと向かう。

山あいに囲まれた緑地が開けた場所にその湖はあった。

穏やかな湖面に釣り糸を垂らした父親の丸めた背中が見える。

「ここ、何が釣れるの?…隣いい?」

話しかけた父親から返事は返って来ない。

ただ穏やかな湖面に虚ろな鳶色の瞳を向けたままの父親に、少し寂し気な笑顔を向けるとミーチャは父親の隣に腰掛けた。

「綺麗な湖だね。ポスキアーヴォって静かで落ち着いたいい所だね」

「ムッターから聞いたよ。ここの家、エットーレのお父様のつてで購入したんだってね。…エットーレ、懐かしいね。元気かなぁ」

隣のミーチャの問いかけにもアレクセイは答えずにただただ釣り糸を見つめている。

「ねぇ、ファーター?」

再三のミーチャの問いかけに、

「うるさい。…魚が逃げるだろう」

と顔を湖面に向けたまま、漸く口を開いた。

「何だよ。聞こえてるなら返事ぐらいしてよ。…それに魚なんてさっきから一匹も釣れてないじゃないか」

笑いながらミーチャが傍らのバケツを覗き込む。

「…」

「ねえ、ファーター。…もうムッターの事を許してあげてよ。本当はファーターだってわかってるんだろ?…ムッターのした事が、間違っていなかったことぐらい。ムッターはただ家族を守っただけだという事ぐらい」

静かな湖面を見つめたまま尚もミーチャは続ける。

「…僕はファーターを責めるつもりはないよ。…男が一生をかけた仕事を奪われるという事は…命よりも大事な矜持を折られるのと同じ事だ。僕だって、もう子供じゃない。心血を注いでいる、そう言って胸を張れる仕事をしているつもりだよ。…だから僕だって、ファーターのような立場になったら、自暴自棄になると思う。…でもね、ムッターだってそんな事は分かってるんだ。…分かっていて、誰よりも愛しているファーターに、そうせざるを得なかったムッターの苦悩を分かってあげて。ムッターだって苦しんでるんだ。ねえ、ムッターの…近頃のムッターの姿をちゃんと見た?まるで、ううん、ペテルブルクにいた時よりもげっそりと痩せてしまって。…ペテルブルクにいた時は貧しくて食べるものも満足になくて、やっぱりムッター痩せてたけど、でも、ファーターがいて、家族に囲まれて、ムッター、キラキラ輝いてた。だけど、今はどう?ムッター、すっごく悲しそうな…苦しそうな顔をしていた。僕あんなムッター見るに耐えないよ。ムッターはファーターから生き甲斐を奪った事をずっと申し訳なく思ってる。…思ってるからこそ、ファーターの態度にもじっと耐えて、健気に家庭を支え続けてるんだ。でも…もうムッターだって限界だよ。ムッターは壊れる寸前の所で辛うじて留まっている状態だ。…ねえファーター。もう、モラトリアムは…終わりだよ。そろそろ眼を開いて、現実をちゃんと見て。そしてちゃんとムッターに…ムッターとの未来に向きあって?愛してるんだろ?ムッターの事を」

湖面の方を向いて項垂れるアレクセイに尚もミーチャは続ける。

「僕の言葉が…ファーターに届いていると、信じているよ。…じゃあ僕これから用事があるから、もうここを発つね。…お邪魔しました。これからロンドンに向かってネッタとアルラウネ伯母様に会うつもりだから、ファーター元気だったって伝えとくよ。じゃあ、愛してるよ。ファーター。ムッターによろしく」

そう言い残すと、父親の身体を抱きしめてミーチャは父の傍らを立ち上がった。

たち去り際に

「あ、ファーターは…確かにあの国から不必要な人間と見なされたかも知れないけれど、ファーターにはまだ…あの国の、あの国の無慈悲な為政者たちに虐げられている可哀想な人たちの為に出来る事があるよ。ファーターの力はまだまだ必要とされているんだ。…また前を向いて歩み始める気持ちがあるならば、いつでも僕に…ううん、ムッターに言って?僕らは待ってるから」

そう言って湖を後にした。