来い！僕は逃げない
思わずそんな言葉が出てしまったのは不意のことだった。
二言目には御幸センパイとばかり口にする降谷に対して苛立ってしまったのかもしれない。
慕われることは当然喜ぶべきことだが、それも度を過ぎれば逆に煩わしくなる。それなりに付き合いも長くなっていたから、降谷の口からその言葉が出ることは単純にいつも通りの習慣だとはわかっていたが、生憎とその時の御幸は、珍しく虫の居所が悪かった。だからいつものように彼の言葉を上手に受けることも流すこともできず、突っかかるような事を言ってしまった。
「あんな、降谷。人のこと勝手に万能扱いするの止めろよな」
外したグローブを降谷の胸元を指差すように突き付ける。
額の汗をぬぐいつつ、突きつけられたグローブに、降谷は不思議そうな顔をした。
「なんでですか」
「まあ俺が凄いのは認めるけど、でも別に俺だけが特別じゃないんだぜ？」
そんなことはないです、と言いたげな不服そうな顔に、御幸の中にある嗜虐心が煽られる。正確には、嗜虐心というよりも、単なるいじめっ子の心理なのだが。
バッテリーを組む以上、投手の性格やクセを把握することも捕手の仕事の内だ。チームの中では誰よりも降谷のことを熟知している自負はある。だからあえて降谷の心に刺さるであろう言葉を選んでみた。
「例えばだ、うちの中だけでもクリス先輩には負けるかもしれないし、宮さんだってお前の球を捕れる。そうでなくたって甲子園の常連校ともなれば、俺やお前が足元に及ばない、すげー選手が山のようにいるんだぜ。
降谷、お前そういう事、ちゃんと考えたことあんのか？」
それは御幸にとっても一抹の不安であった。
この青道に降谷の球が捕れず泣き言を口にする捕手が正捕手として在籍するとは思えないのだが、今までが今までだ。御幸が居る間は良い。だが、学生である以上、御幸にも必ず引退と卒業の時はやってくる。本人と周囲が望むと望まざるを問わず、降谷とのバッテリーを解消する時が必ず来る。
誰にも自分の球を捕ってもらえず、野球をすることができなかった降谷。それでも野球を諦めきれず、最後の望みとして選んだのが青道高校―いや、御幸だ。
唯一の希望を掴み、望みを現実のものとした後の降谷は、誰の目にも明らかなほど御幸にぞっこんだった。少なくとも今までの降谷には、御幸以外の投手は見えていない。ではその盲信といえるほどに見つめている御幸が居なくなった時、降谷は一体どうなってしまうのだろうかと、客観的な視点から不安に思わずにはいられなかった。
「そんなんで俺が卒業したらどうするつもりだよ」
「え……」
いくら御幸といえど、自分を慕う後輩が可愛いくないはずもない。
なんだかんだと構うのも、チームのためという大きな目標のためだけではない。一個人として降谷のことを好ましいと思っていた。だからこそ、今はまだ狭い範囲しか見えていない降谷の視界をもっと広げてやりたい、御幸がいなくなった後でも彼が希望を見失わないようにと。自分の将来のことだけではなく、彼の将来のことを心配するくらいに。
「御幸センパイが……卒業」
呟いた声には力がない。突きつけられた問いに、降谷はただ茫然としていた。
「そう。俺がいなくなったらお前、どうすんの」
もう一度ゆっくりと同じ問いを繰り返す。どれだけショックを受けていようが茫然としていようが、きちんと言葉の意味が伝わるように。
表向きは無表情のままではあったが、降谷のポーカーフェイスの下からは隠しきれない動揺が空気で伝わってきた。
「……考えたこと、ないです。そんなこと」
力のない声で答え、降谷は顔を伏せた。
当然といえば当然の反応だろう。降谷にとっての目標は御幸であったし、御幸のことだけを考えてここまで来たのだから。すぐ側に居る間にそんなことを考えられるはずもない。
そこまでして御幸で頭をいっぱいにしている降谷のことが、無性に可愛く思えて仕方なかった。途端、さっきまでの機嫌の悪さもどこへやら、にやにやと笑いがこみ上げてくる。御幸も御幸で現金なものだった。
「あー、もう！
大学行ってもプロ行っても、時間あったら顔見に来てやるからそんな顔すんなって」
御幸より少し高い位置にある降谷の頭を、わしゃわしゃと乱暴に撫でまわす。オマケの大サービスでついでにキスでもしてやろうかと思ったが、止めておいた。
「本当ですか？」
御幸の言葉に降谷の表情が途端にぱっと明るく輝いた。
降谷も降谷で単純というか、現金な奴だと苦笑しつつも、嫌な気にはならない。
「マジもマジ。超マジ。
ていうか今まで俺が野球に関わることでお前に嘘ついたこと、あるっけ？」
少しだけ考えて、無言のまま降谷は首を横に振った。その仕草を認めるように、御幸もまた満足げに頷いた。
「それじゃあ御幸センパイ、来たら絶対また僕の球、受けてくださいね」
「しょーがねーなー、降谷は」
言いながらも御幸がその申し出を拒否することはなかった。結局のところは降谷が御幸の事を追いかけるのと同じくらい、御幸も自分の事を後から追いかけてくるこの後輩のことが可愛くて仕方がないのだ。
随分とほだされたものだと自分に呆れてしまう。
けれどそれはそれで良いのかもしれない。
例え降谷がバッテリーを組む相手が変わったとしても、彼の中ではいつまでも御幸一也が一番の求める相手であり続けることだろう。御幸が居る限り、もう二度と降谷は自分のやりたい事を諦めなくても良いのだ。
降谷が諦めない限り、野球を捨てない限り、御幸の背中を追いかけて降谷はどこまでもついていこうとするのだろう。そんな未来が手に取るように想像がつく。
（本当に可愛い怪物クンだよ、お前は）
いろいろと想像をしてみて、やっぱりどうにもたまらなくなったので、降谷の額に軽くキスをしてやった。