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うめぼし

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 マウンテンバイクが水たまりの雨水をはね上げた。その水滴がアスファルトに落下する頃には真田の運転するマウンテンバイクは数メートル先を走っている。サドルから尻を上げて、踏み込む足に力を込めた。夕暮れの、今にも屋根の向こうに沈もうとする太陽がその額を赤く照らした。歩道をゆっくりと走ってゆく自転車を次々に追い越す。部活帰りの高校生なのだろう。女子高生が大きなボックスバックをたすき掛けにして、荷台に掴まっている。自転車を実際にこいでいるのは坊主頭の男子校生だ。視線を上げれば、歩道橋を小学生の黄色い帽子が渡ってゆく。行く先の道路を見つめる。マウンテンバイクはスピードを緩めない。学校が連なるあたりを突っ切り、駅の裏手を走る。繁華街が広がる。陽が半分隠れて、薄暗くなった町はネオンの点灯を始めている。原色のネオンだ。それまで真田が走っていた、あの夕暮れの町はどこにもない。
 繁華街に少し入ったところ、アダルトビデオ店の裏手にバイクを止める。裏口を開け、店員に一声声をかける。赤い髪の、真田とそう歳の変わらない男である。彼は無言でうなづいて、頭に撒いたタオルの下の目を光らせた。……真田の働いている店のオーナーとこのアダルトビデオ店を経営している老店主は懇意で、真田はいつもマウンテンバイクをここに置かせてもらっている。彼の働く店には駐輪場というものは存在しない。繁華街のど真ん中なので駐車場もない。ほとんどの客が行き来にタクシーか、ハイヤーを使う。
 歩いて十分ほどのところに真田の職場がある。裏口を開け、ロッカールームに入る。制服のスーツに着替え、埃の一つもついていないのを確認する。ネクタイを締める。ハイテクのコンバースを脱ぎ、皮靴に履き替える。ロッカールームを出、フロアにモップをかけている厨房担当と一言二言会話を交わす。モップ掛けを交替し、真田は隅から隅まで床を磨きあげる。
 開店時間が近づいてくると、女性の声がフロアに響き始める。この店の準主役たちである。マネージャーが朝礼(もう夕方ではあるのだが)を始める。真田は女性たちの後ろのほうで手を組んで訓辞を聞いている。大きな花瓶が中央に置かれる。そこでは、極力匂いをさせない花が選ばれる。グランドピアノの鍵盤が、演奏担当によってポーンと叩かれる。ささやかな照明が、その黒くて大きな楽器を照らし出す。真田はそういうフロアの様子を端から端まで眺めて、そうして入口まで皮靴を鳴らせる。彼の仕事はドアボーイである。会員制のこのクラブでは重要な役目だ。時折、酒を飲み過ぎて店の女性に手を出してしまった男たちの排除も引き受ける。
 フロアに比べると明るい入口付近で、真田はそっと目の間を摘んだ。血の色を透けさせて赤いそこに、随分前の光景が広がる。黒いトレンチをなびかせてこの店に入ってきた男のこと。名前は伊達政宗。上司と、クライアントだろう男性二人と入店していた。彼の、左目が真田を捉えた瞬間。見開かれた目が、同じように目を見張っている真田を映している。そのくちびるが、小さく幸村と形作った光景。大学時代と、変わらない彼のすがたかたち。
 開店の合図がする。伊達が今日この店にやってくることはない。今朝方、真田の食事にとラップがけされた食事のかたわらに、明日から一週間ほどミラノ出張に行ってくるという書き置きがあった。……それ以前より、もうずっと伊達の顔を見ていなかった。あの日ここで再会して、同棲を始めたはいいものの、普通の会社員である伊達と、こうしてクラブで日付の変わるころまで働き、それ以後は夜明け近くまで交通整理をしている真田とでは生活時間が違う。
 朝もやが目にしみる。真田はつぶっていた目を開ける。交差点に、制御すべき車両は真田のマウンテンバイクのみだ。左手で青信号が黄信号に変わる。ペダルに足をかける。目の前の信号が赤から青に変わるその瞬間に足の筋肉に力を込める。マンションに帰ったら、ダイニングのテーブルの上にはうめぼしのおにぎりが三つ、作ってある。茶っ葉の入れられた急須と、伏せられた湯のみ。小皿に添えられたなすの漬けものと、たくあん。そういう、伊達の残り香ではなく、彼本人に会いたいと思う。彼本人の声が聞きたいと思う。ミラノか、遠いな。そう呟いて活動をし始めた朝の町を走る。タイヤが水たまりの水をはね上げ、その水滴が地面に落ちる頃には真田のマウンテンバイクは数メートル先を走っている。だがこの疲れ切ったからだとこのマウンテンバイクでは、あの人に会いにゆくこともできない。
作品名:うめぼし 作家名:いしかわ