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浴室

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橙色の照明が点くのを見ると、折原臨也は平和島静雄と相対する心の準備をする。
随分前から、そういうことになっている。

照明のすぐ下の細長い鏡が寒々しい半透明のガラスの嵌ったドアと銀色のドアノブを映している。ドアの向こう側に黒い人影。ガチャリとドアノブが回る。 平和島静雄がドアを開ける。

折原臨也は目を細め、視線を上に向ける。黒いカビの生えた換気扇とクリーム色の天井を見つめ、ゆっくりと視線を下げていく。
湿った冷たい空気の中に煙草と埃の匂いを撒き散らして、バーテン服のままの静雄が浴室に入ってくる。

「おかえり、シズちゃん」

臨也は笑ってみせる。とても笑える心境ではないし、本当は口もききたくない。しかし、静雄に対して無反応を貫こうとする事にも多大な労力が必要だった。

「おう」

今日の静雄は機嫌が良さそうだった。仕事中に一度も癇癪を起こさないで済んだのかもしれないし、あるいは単に帰宅前に友人と何か話して楽しい気分になったのかもしれない。何にせよ、今日は運がよかったな、と臨也は思う。
静雄は、臨也に暴力をふるう事でストレス解消を行っている。元々他人の顔色を窺うことを得意としていた臨也だったが、おかげで今では仮に静雄がサングラスをかけていたとしても表情の変化を見分けられるようになってしまった。

「今日の夕飯は?」
「牛丼」
「吉野家?」
「ちげぇよ」
「え?コンビニ弁当?」
「違う」
「えー?何?わかんない、降参!」

臨也は相手を不快にさせないよう、楽しそうに振舞う。

「トムさんの彼女が作ってくれたののお裾分け貰った」
「わぁ!おいしそう!」

ぷん、と濃い匂いが広がる。臨也は、あまり味の濃い料理が好きではない。静雄が箸で白飯と牛肉を取るので、臨也は鳥の雛のように口を開けた。

「んー、料理上手だね」
「そうだな」
「トムさん、いい彼女がいて幸せだね」
「そうだな」
「シズちゃんは料理しないの?」
「考えたこともなかった」
「作ってよ。俺、久しぶりにシチューが食べたい」
「シチューって・・人参、じゃが芋、玉葱、豚肉のあのシチューか?」
「うん。うちは牛肉だったけど、そのシチューだよ?」
「じゃあ明日作ってみる」
「シズちゃんは優しいなぁ。楽しみにしてるよ」

この時臨也が考えていたのは、

ああ不味い。こんな不味いもの美味しいって食べてるシズちゃんは舌がどうかしてるとしか思えない。舌まで馬鹿になっちゃってるんだねかわいそうに。それにしたって、シズちゃんが料理なんか似合わないにも程がある。どうせ鍋を焦がすとか、肉が生とかそういう不器用さを発揮するに決まってる。ああでも、一生懸命作った料理を俺が一口も食わなかったら少しは傷つくだろうな。それなりに頑張ってシズちゃんが作った、それなりにおいしそうな料理を俺が、「うわぁ最悪にまずそう。とても人間の食う物とは思えないわ。ごめんせっかく作ってもらっといて申し訳ないけど、俺には無理」って言ったらどんな顔するだろう。

という事だった。
それでも、臨也は、どこから見ても、ただ幸せそうに静雄の手からご飯を食べる無害な生き物だった。

「シズちゃんが今日は優しいから、一個お願いしていい?」

臨也は味が濃くて硬い牛肉を嚥下しながら言った。静雄の肩がピクンと揺れた。その目に猜疑心が去来するのを見てとった臨也は、ニヤニヤと唇が歪みそうになるのを必死に堪える。

シズちゃんは、俺に、「ここから出して」って言われるのが怖いんだ。そう言われたらシズちゃんは機嫌が悪くなるし、そうしたら、この穏やかな時間もおしまい。名前通りの平和で静かな時間は、また明日までおあずけだもんねぇ。

臨也には、なぜ静雄が自分をここに閉じ込め続けているのか分からない。しかし、静雄の心の動きは、他の人間と同様に、読み取ることができるのだった。

「何だ」と静雄が硬い声で答える。

「あのさ、身体洗ってくれない?せっかく風呂場にいるのに、俺、自分じゃ何にもできないからさぁ」
「あ?あー、そんな事かよ。じゃあ食い終わったら毛布片付ける」
「シズちゃん、大好きだよ」

静雄がほっとするのが分かった。臨也は、馬鹿じゃないかと内心で毒づいた。

臨也の右手は、手錠でバスタブの横の手すりにつながれてる。両足は静雄によって折られていたし、唯一自由な左手も、中指、人差し指、薬指が折られていて使い物にならない。動かすたびに鈍痛が身体を駆け抜けた。どんなにここから出たいと願ったところで、出て行きようがないのだ。

「俺、もうおなかいっぱい。あとはシズちゃんが食べて?今日も仕事いっぱいしておなかすいたでしょ?」
「変な気ぃ使ってんなよ?」
「使ってないよー。俺がシズちゃんに遠慮するわけないじゃん」
「それもそうだな」

機嫌を損ねれば暴力を振るう人間と居て、気を遣わないわけがない。

そうだなぁ、さしずめ俺はストレス解消の為の生きたサンドバッグ兼、穏やかな空間を提供するかわいいペットってところかな?矛盾してるけどしょうがない。人間ってのは多かれ少なかれ矛盾してる生き物なのだ。『人間』相手ならそういう部分さえ愛しく思うのに、平和島静雄という化け物が相手だと、そんな感情は生まれない。

それでも、臨也は、殴られ蹴られて痛みに呻きながら、それを回避するために媚を売ることを選んだのだった。静雄が、己の言葉を本心からのものと疑わなくなるまで繰り返してみせる。そこに脱出の鍵はあるのだと臨也は信じている。

「ごちそうさま」
「おいしかったねぇ」
「そうだな。・・じゃあ湯入れるか」

静雄が毛布を浴室の外に放り出す。臨也はバスタブに栓をした。ゆっくりと生温い湯が溜まっていく。
作品名:浴室 作家名:うまなみ