撮影中 case4
彼女は立ち上がり、受話器を置くと、涙で頬にくっついている髪を剥がしながら真っ暗の店へ入っていく。店は施錠されているが、彼女に鍵という概念は存在しない。鍵のかかった扉をあけないのは、他人のルールにつきあっているだけだ。
すっかり疲れきった様子でキャサリンはスツールに掴まった。カウンターテーブルに肘をついて顔を覆い、息を整える。何もかもが間に合わないのだ。彼女の故郷はあまりに遠い。心ももはや離れている。怒りや悲しみに取り込まれていても、誰も助け出してはくれない。
学生ビザでこの星に入ってから、一度も帰っていなかった。同じ星の出身でも、素封家の子女たちは本当に学校に行き、故郷の連休に合わせて帰省したものだが、キャサリンには無理だし、休みがあるなら二段ベッドがぎっしり詰まった搾取の巣から出て同郷の若者たちと江戸で遊びたかった。彼らはこの星の道路を敷き、あるいは建物を建てていた。誰もが、村人すべてにあてたお土産をつめこんだ真新しいスーツケースをいくつも運ばせ、しゃれたスーツを着てネクタイを締め、香水をつけた自分、そんなパートナーとともにある自分が生家の戸口にたつ日が来るかのようにふるまった。みんな奴隷みたいだったのに。彼女が最初の頃働いていた店と同じく、おかしな天引きで週払いのようになった金額 のお給金のために。
彼女は顔をあげて髪を掻き揚げ、さっきまで身も世もなく泣いていた女とは別人のようなしぐさで、たばこに火をつけようとライターを擦った。カウンターの背面に並んだ酒瓶がそれぞれ鈍い色を反射する。そのとき、そばにからくり人形が据え置かれているのに気がついた。
キャサリンは静かにからくりの覆いを外した。白い、なめらかな頬をしたからくりは神々しかった。眼を閉じ、かすかに笑っているかに見える。いにしえの時代、故郷で栄えた王朝の神像、その切断された頭部のようだ。ほうぼうの星に持ち去られ、今は博物館に陳列されてでもいるのだろうか。キャサリンは体のほうしか見たことがなかった。それも遠い昔に。彼女はたばこを置いて、告解のように話しはじめた。
『故郷の言葉で語りかけることをお許しください、神様のようなあなた。けれども私は神を信じてはいません。私の故郷では誰も他人をなど信用しないものなのです。
あなたが来られるまえも、そのあとも、雇われようとしてこの小さな店をおとなう出稼ぎの娘は後をたちません。私はつねに追い払ってまいりました。みずから同胞を裏切り、江戸の邦人社会から抹殺されることを余儀なくした私には、この店に置いてもらうよりほかに食べていく手立てもありませんので。娘たちは例外なく窮状にありました。私のようになるのも時間の問題でしょう。さもなければ、もみくちゃになってつぶれましょう。けれども私に何ができましょう。
私は心の弱さゆえにこの星で堕落し、多くの人々が忌み慎むべきと考えるようなことばかりをしてまいりました。知れては困ることが、知られていることよりずっとたくさんあります。自分でももてあますほどに。悔い改めたように見えたとしても、この星の他人に逆らっては老いたる身をとどめられないから従うまでで、本性はもとのままです。魂はときに良心のはけ口を求めて軋轢をうみ、ただ愚かしいだけの落涙に変わります。苦悩からの脱却と引きかえに、自我を放棄せよというのならば、私はただちにそうするでしょう。あなたになりたい。あなたの涙は美しいと聞きました・・・』
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