知らないで動く世界
触れるか触れないかの距離を保って、15秒ほどが経つ。
甘いような吐息が混ざり合う。
「カークランドさん」
貴方ですよ、と小さな声でこっそりと教える。
――カーット
多少の苛立ちを含んだ硬質な声が飛んでくる。これは何度目だろうか。もう片手では足りない。
肘の辺りの服を僅かに掴んだまま、動かない目の前の人物に声をかける。
せっかく、こっそり教えたというのにこの人は。
「疲れがたまってますか?」
こんなふうに、ワンシーンにてこずることって、珍しいのでは?
そう続けると、悪い、とだけ返ってきた。
落ち込んでいるのかと思いきや、監督や、周りのスタッフ、共演者に視線を巡らせて声を上げた。
すみません。続けさせてください。
その声で、空気が変わった。一旦休憩を入れる雰囲気になっていたが、再び戦場へ場所を移したのだ。
しかしこれはどういうことなのだろう。
目の前の人物は、監督の指示通りのタイミングで台詞を終え、私たちのあいだに流れた雰囲気に飲まれるようにしてまぶたを下ろし、顔を近づけてきた。私のほうも監督の指示通り、彼の動作に戸惑うように僅かに身を引く。それから、覚悟を決めて唇への接触を受け止める。
受け止めた。
監督の指示通りの演技がお互いにできた。
できたのだから、次へ行こうじゃないか。
このシーンはこれで終わりではないのだから。
と思うのだが。
苦しくなってきた。
しかし、まだこの演技は使えるかもしれない。
その考えのために、身を引くに引けないでいる。
しかし苦しい。
「んっ」
耐えかねて、ほんの少し身じろぎをした。
すると存外あっさりと離してくれた。
さあ、このシーン、あと少しだ。
見つめあう。
光が差し込む金髪がきれいだった。
まっすぐに見つめられると、変な気を起こしそうなほど花緑青の瞳がきれいだと思う。
きれいだからいつまででも眺めていられるのだけど。
「あなたの番ですよ」
小さな声で囁く。
あなたが言ってくれなくちゃ、私は返事ができないじゃないですか。
――カーット
先ほどよりも多くの苛立ちを含んだ声が響いた。
その声に触発されたかのように、アーサーは動き出した。
掴んでいた菊の肘を掴みなおし、歩き出す。
監督、スタッフ、共演者に言う。
「すみません。ちょっと相談したいことあるんでこいつ借りていきます」
一旦休憩入りますー。見習いADの声が遠くで聞こえた。
「控え室、どこだ」
「え、私のですか」
告げると、彼の部屋より近かったのだろう、借りるぞとだけ言って向かった。
着いてドアを閉じたところで、アーサーの動きは止まった。
「あの、カークランドさん」
「なんだ」
「――それは私のほうです」
「……悪い」
「いえ、」
そうではなくて。それでは埒が明かないじゃないですか。どうしたんですか。あなたらしくない。
ワンクールのドラマの撮影はわりと順調だった。物語は架橋に入っている。だからわかる。いままで、こんなヘマをすること、あなたなかったじゃないですか。
「体調が優れないのですか? それとも、なにか考え事でも?」
二つ目の選択肢のときにアーサーはぴくりと反応した。
「私でよければ、聞かせていただけませんか」
私より背の高い彼は、すらりと長い手足も手伝ってか、端整な顔立ちが美しい。金髪に碧眼という、絵に描いたような西洋人らしさも相まって、一般人だけでなく、この世界の中でも人気は高い。そんな人だって、人だ。悩みなど、星の数ほどあるのだろう。その一端を、解してあげることができたら。とは、このときはまだ考えていなかった。
「カークランドさん、みなさんをお待たせしていますし」
できることなら手短に。とは言わないけれど、言葉を促してみる。
「演技の相談ですか? 私には違和感はありませんよ、カークランドさんの演技に」
「それとも、私がおかしかったですか?」
「ああ、監督の指示に納得行きませんか?」
適当に言葉を発してみる。どれか当たればいいなと思いながら。
「……違うんだ」
やっとの言葉は、否定を示すもの。けれど主語がないために理解は難しい。
無言を通して、続きを待つ。
「ごめん、言わないつもりだったんだが、俺、お前のこと、」
なんだろう。
嫌い、だろうか。
好きじゃない、だろうか。
どちらにしても、そんな相手と演技とはいえキスをしろと言われているのだ。そして実際唇を重ねたのだ。
それはそれは気分は良くないだろう。
傾いてくるアーサーの身体を、拒むことはできずに受け止めた。受け止めたが、その傾きは止まらずにずるずると崩れてくる。
「わ、わ、カー、クランド、さん」
非常事態だ。アーサーに押し倒された。
そう思ったが様子がおかしかった。アーサーが動かない。それにやけに身体が熱い。呼吸も荒い気がする。
アーサーを仰向けにひっくり返しながら彼の下から抜け出す。そして彼の額に手をやって驚く。
「え、ちょ……っ」
控え室には電話が置いてある。医務室に内線を飛ばして、人を呼んだ。
「カークランドさんなにやってるんですか酷い熱じゃないですかなんで一言言ってくれないんです」
ああもう。悪態をつきながら、かばんからペットボトルを取り出す。ハンカチを中身の水で湿らせて熱い額に乗せた。元が常温の水だから、彼の熱を取るには程遠いが、それでもなにもせずにはいられない。寒いですか暑いですかの呼びかけに応えないために、それ以上のことをできないでいたが、そのうちに医務室から医者がきた。あとは、任せよう。
......END.