うれい
同じつくりのはずなのに自分の教室とは違うその雰囲気に違和感を感じつつ、窓際でぼんやりと座る彼のもとへをゆっくりと歩いていった。
「秋に心って書いて『うれい』って読むんだって」
こちらを見ずに急にそんなことを言う。
手元を覗き込むと国語辞典を開いているようだった。
電子辞書の方が軽いし便利じゃんと言っても「新しく買ってもらうの悪いし、紙めくるの好きなんだよね」と言って彼はお姉さんのおさがりの重い辞書を何冊もロッカーに閉まっている。
なんでも新しい物が好きな癖に彼にはそういうところがある。
こだわりなのか、親に気を使っているのか、そういう部分を俺は好ましく思っている。
『嘆き悲しむこと。憂鬱で心が晴れないこと。』
愁いの意味を頭に思い浮かばせてみるけれどそれを辞書でひいている彼の心まではわからない。
「悲しいの」
「さぁ…わかんない」
「そっか」
誰かが閉め忘れたのか、開いたままになっている窓から風が入り込んできて、彼の髪がそよそよと揺れている。
「部活、始まるよ」
「うん」
「遅れると及川がうるさい」
「うん」
「さぼっちゃおうか」
「及川がうるさいんじゃないの」
「あいつはいつもうるさい」
「確かに」
「いく?」
「うん…いこうか」
いこうと行ったくせに花巻は立ち上がることもなく相変わらず窓の外を見ている。
机の上におざなりに投げ出されている手に自分のそれをそっと重ねてみても彼は何をするでもなく黙っている。
まだ暑い日が続いているのに彼の手は冷たかった。冷え性だっけ。
できるなら強く握って温めたいと思ったけど、きっとそれは彼が許さない。
しばらく黙っていると静寂を裂くように遠くから足音が近づいてきた。やっぱあいつうるせぇな。
「あー!まだこんなとこにいた!ちょっと!今日3年だけでミーティングするって言ったでしょ!岩ちゃんが待ちくたびれて寝ちゃうよ!」
「悪い、ちょっと提出する課題終わんなくて」
「早く来てよ!まっつんも!」
「ああ、悪い。すぐ行く」
花巻が『愁い』をしおりにして辞書を閉じた。
この辞書の中には花巻の心がたくさん挟んであるのだろう。
俺は電子辞書派だけど、花巻のそれはなんだかすごく魅力的に思えた。
「俺も紙の辞書買おうかな」
「え、重いし持ち歩くの大変だぞ」
「言葉の重さというのを物理的に感じるのもいいかと思って」
「なんだそれ、変な奴」
笑いながら花巻が窓を閉めた。ひんやりと涼しい風がやんだ。
もうすぐ夏が終わる。
秋がきて、冬を越えたら春が来る。
俺たちの最後の戦いが始まる。