テイク・ミー・アウェイ
少年の瞳は黒かった。そして、冥かった。
いつまでこのような状態が続くのでしょうか、とぽつりと呟く彼に、私は言葉を失って黙り込む。もしかしたら永遠に。永遠に、私はここで放置され、彼は軍で立場がないままに、ただ膨大な時間を無駄に消費し続けるのかもしれない。私の躯が朽ち果てるまで、彼らは私を憎んで赦さないかも知れない。
それをこの未だ歳若い少年に伝えることは偲びなかった。
彼が私の前でこのような顔をすることは珍しかった。彼は滅多に希望のないことは言わない。私が言葉を失うような、そんな問いかけはしない。それが彼の考える私に対する礼節であり、遠慮であり、愛情である。
全体にチョコレートコーティングされたケーキのような、そんな完璧なまでに飾られた彼の私に対する言葉が、ひずみ、ヒビが入っている。その隙間から覗くのは疲れと焦燥だ。憔悴し切っている。余程、余裕のない生活を強いられているのだろうと思うと、哀れだった。私の腹心であったという過去故に彼の立場は弱く、不安定なものとなってしまった。本来であれば彼の将来は約束されて当然のものだったのだが。
私は彼の優秀さを知っている。かつてそれを知って、買って、育てたのは、この私だ。その頃のことを思い出すと、今でも少しだけ唇が笑みで歪む。美しい子供だった。不幸な過去に満ちた彼の瞳には虚無が陰を落としていた。
あどけない子供の頃から、彼は優れていた。頭ひとつ抜けていた。その瞳に過る他人に対する驕慢さと、目上の人間に対する素直な受容の態度を、私は見逃さなかった。その冷静な自己保身の本能を。純粋な崇拝者となりながら、傲慢な冷血漢となれそうだと、私は思った。まるでかつての私のような。
今考えると、それは少しばかり甘い考えだった。彼は正直なところ、私が思っていたよりも余程暖かい血の通った人間で、感受性が強く、迷いが多かった。そうでなかったら、将来も知れないような私のところへ、休むことなく毎週通い続けるなどということが出来る筈がない。三年間も。
己の永く、可能性に満ちた将来を総て賭けても、この私を見棄てない。見棄てることができない。負けが込んでいるのに、乗るか逸るかで乗ってしまう。十年にも満たない日々の恩義を簡単に、無情に忘れ去ることが、出来ない。
優しく、柔らかく、甘い。どうしようもないほどに、脆い。
そんな彼に、言える筈も、ない。
御髪が大分伸びてしまわれましたね。
彼は、私の逡巡を読み取ったのか、話題を替えた。少々わざとらしくなったのは仕方がないだろう。彼は未だ幼い。
乱雑に纏められた私の白い髪を、彼は取って解いた。四角く切り取られた空から吹き込む風でそれが少し舞ったが、胸ポケットから出した櫛で器用に梳る。
刃物は全て禁じられているのだ、仕方がない。
私は彼に背を向けて話した。呟くほどの声。十五メートル程先に立つ看守の目は私たちに向いていなかった。ただ眠そうに欠伸を繰返している。
馬鹿馬鹿しいことですね。
彼の声が少しだけ高くなった。きっと今、彼の瞳には、唇には、あの驕慢な光が射している。私が、この私が自死を選び取るのではないかなどと言う杞憂に悩まされている愚かさを、刃物以外のもので身体を傷付ける可能性すら想定できない至らなさを、私が自死したときの責任を問われることへの怖れを、嗤っている。嘲笑っている。
私も一緒になって嗤う。愚か者ばかり。目先のことしか考えられない者ばかり。大局を観ない。彼らにあるのは目の前の人参、それさえ与えられれば、もう満足して奔る。操られていることも知らないで。蔑まれていることも知らないで。私は己の傲慢で己の心を慰めている。
いざとなれば。
彼はその手で私の白い髪を編む。器用に。
いざとなれば、舌を噛むことだって出来ますからね。
彼の不遜な声は、看守には届いていない。士官だと言うだけで、彼は畏れられる。そんな者達を見下しながら、彼は言う。舌を噛むということに、どれだけの意志の力が必要か、それは私も彼も承知の上で、思う。いざとなれば、自分たちは舌でも噛める。
それに、こんなものでも首が絞められそうだ。
振り向いて、綺麗に編み上がった髪を指差して言うと、彼は一瞬だけ、惚けたような顔をした。そして、冥い瞳を落とし、静かにそれを私の首に巻き付けた。襟巻きのように巻かれたそれを、彼が引けば、窒息するだろうかと考える。少し無理ではないか。無理があるのではないか。
やはり無理かな。
私は微笑んで、彼に向き直った。その手がパッと私の髪から離れた。
すみません。
謝罪の言葉とともに逸らされた瞳は、黒かった。そして、冥かった。
私は手を伸ばし、彼のその白い首に冷たい両手を回した。私の手は、あの日以来、決して温かくなることがない。あの、父殺しの日以来。
私の手の中で温かく、力強く脈打つ彼の首を、私は強く握った。絞まる。彼の目が細められる。まるで、恍惚の中に揺蕩うように。快楽の中に漂うように。喘ぐように顎を上げ、唇を開く。絶境を、悦楽を感じ、果てる直前のような神々しく卑猥な表情に、手の力が強められた。ますます高く私の掌を打つ血潮の拍子に私も陶然とする。柔らかいその肌の中、彼を流れるものを塞き止めてしまいたい。
彼の心を私は聴く。殺してください。おそらく一瞬の迷いにすぎないそれをしかし、私は聞咎めて、その癖、拒絶しない。今ここで彼を殺してしまったら。きっと狂気は本当に私を喰い殺すだろう。
その誘惑が、私に取り憑く。
そうなってしまえば、良かったのだ。
次の瞬間、私の身体は取り押さえられた。
「馬鹿野郎!手を放せ」
もうすでに彼の白い首からは私の冷たい手は離れているにも拘らず、愚か者どもは私を罵って命令した。従うことなど不可能な命令。私の体はギリギリと締上げられた。口から呻きが漏れる。惨めな音が。
そのまま檻の中へと引き摺られていく私に、彼は頭を下げた。
また来週、参ります。
私は頷いた。彼の首に残る赤い筋を見詰めながら。
再び顔を上げた彼の瞳は、黒かった。冥かった。重い鉄の扉が閉まるまで、私の瞳をただ、視ていた。虚無の広がる、その瞳で。
作品名:テイク・ミー・アウェイ 作家名:芝田