コトノハノコハク
「和也くんの隣とーった」
他の女たちと同じく、一瞬浮かせかけた腰を和也の隣に下ろし、彼女は微笑んだ。
「いいのかよ……聞いてなかったのか? あれ一本百万だぜ」
けだるく手の平で指した先では、見目麗しく装い、丁寧なヘアメイクを施していたはずの女たちが、掴み合い罵り合いながら、金とダイヤで作られた一本のつまようじを奪い合っている。
隣に座る女は軽く肩を竦めると、自慢げに手を前に伸ばして見せた。美しく彩られた爪の先にはキラキラしたビジューとジュエルパーツがトッピングされ、華やかな照明を反射させて輝いていた。
「百万は惜しいけどー、今のネイルお気に入りなんだよね。したばっかなのに傷ついたらイヤじゃん?」
けらけらと笑う女に、和也は(ネイルって言ったって、百万あったらいくらでも塗りなおせるだろ。計算もできないアホなのかよ)と、内心で嘲う。
女は猫みたいに肩口にすり寄ってくると、にんまりと口の端を上げて和也の顔を覗きこんでた。
「……百万円のつまようじよりか、そんなのを簡単にぽいって出来ちゃう人の方に興味あるかなー」
寄せられたせいで、ふにゃりと形を変えた胸元の白い肌から、いい香りがした。わかりやすい手練手管に、まだ柔らかかった心が簡単に跳ねた。
もちろん、白い肌に煽られたのもあるが、女が発した『興味がある』という言葉が胸に沁みた。
瞬間的に、金より自分を見てくれた、と思ってしまったから。
女の名前は『ありさ』といった。
本名なのかはわからない。おそらくは源氏名だろう。
和也の父親や、帝愛の幹部たちは足を運ばないような、一応会員制であるだけの、一段落ちる店勤めの女だ。元ヤンか風俗嬢を兼ねているのか、言葉遣いは荒く崩れていたし、さしたる教養もなさそうだ。
けれど、地頭は賢いのか、普段和也を取り巻いている女たちとは違って、会話が成立した。ニーチェにトルストイといった一般知識はてんで持ち合わせていなかったが、和也の考察を遮ることなく、にこやかに頷いて話を聞いてくれた。
時々は一考に値する鋭い疑問を挟みまでした。
いや、それだってただの惚れた欲目だったかもしれない。
頭いいね。物知りだね。いろんな事考えてるんだね。通り一遍の誉め言葉を織り交ぜて打たれた相槌に、語るつもりもなかった文学論まで口にしていた。
「和也ってすごく一杯本読むし、頭いいし、自分でも小説とか書くの?」
本を読む人だから、小説を書く。自分では読まない人間の発想だ。
だが、和也は何気なかったのだろう言葉に天啓を受けた。
そうだ。小説だ。
なぜ自分は今まで小説を書かなかったのだろう。
小説は一人で物語と向き合い、言葉を綴る作業だ。書き上がるまで、そこに他者が介在する余地はない。自分だけの力で、何かを生み出すことができる。生まれる感動は自分自身と読者だけのものだ。
やっと進むべき道を見つけた。
「小説……ね、書いてみてもいいかな」
「私のことも出してね。書けたら読ませてー」
気楽な様子でありさが腕に纏わりつく。それから和也は、面白そうなアイデアが浮かぶと端からありさに話して聞かせた。少年が無人島に漂流する冒険譚、厭世的な青年が巨悪を暴くサスペンス、王子様が哀れな花売り娘を見出すラブロマンス、どれも自分ではそれなりに思えたが、なかなか書き出すことはできなかった。
書き出しの一文がどうしても思いつかなかったし、いざ文章にしようとすれば、頭の中では生き生きとしていたはずのキャラクターたちは、これっぽっちも動きだそうとしなかったからだ。
ありさはいつだって、何も形にしていない和也の思いつきを面白そうだと誉めそやし、早く読みたい、と甘い声で強請ってきた。
いざ書こうとして何も書けないことに気が付くたびに、ありさの元に足を運んだ。ありさからイベントの知らせや、今日は来ないのかという連絡が来れば、必ず店に向かった。
ありさは売れっ子だったから、イベントの日には席に腰を落ち着ける暇もないようなありさまだったが、この席だけがほっとする、と言われればイベントに来た甲斐があると思えたし、本当は好かれていない他の席の客を憐れむ余裕まで持てた。
ありさを喜ばせたくて店では必ず高い酒を入れたし、ありさが望むものは何でも贈った。ただ、ありさのための物語だけが書けなかった。
ひとつ言い訳をするなら、和也は忙しかった。
和也は小説家になろうという思いつきをありさ以外には話していなかったし、陰に日向に付き従っている高崎をはじめとした黒服たちにも口外を禁じていた。もし、それが父や兄の耳に入れば、それがいかな駄作であろうとも、帝愛の総力を上げてバックアップされることが約束されているからだ。それでは小説家を志す意味がない。
だから、誰も和也が本気で小説家になろうと考えていることなんて知らなかった。ゆえに、和也には帝愛の後継者、あるいは後継者となる兄のより良き補佐となるように、様々な帝愛流の帝王学が課せられていた。
部下たちの使い方や、経済の流れの作り方、他人の動かし方など、学ぶべきことは和也の前に山積みだった。
ありさの前で、まだ一文字も綴っていな小説の話をする時だけが和也の安らげる時間だった。
ありさの隠しきれないはすっぱな喋り方は、記憶の中にある、母のいつまでたっても日本語に不慣れな言葉遣いにどこか似ていて、時折まだ母を無条件に慕っていられた頃を思い起こさせてくれた。
文壇に新風を。文芸界にどでかい金字塔を。
まだ何も書いていない和也には、いくらでも放言できた。何も書いていないということは、いくらでも夢想できる、ということだ。
自分がしていることのバカバカしさにはもちろん気が付いていたが、いくら作家を志したところで、和也が帝愛の御曹司であることは変わらず、いずれ作家の夢だって萎んで消える。
誰よりも和也自身がそのことをよく知っている。誰よりも、和也自身が、和也の夢を信じていなかった。
けれど、ありさは、和也がどれほど野放図な小説の話をしても、侮ることなく誉めそやしてくれた。
ありさが、ありさだけが、和也の夢を、和也を信じてくれていた。
……和也がそう信じたかっただけだと気が付いてしまったのは、ありさの訃報を知らされた時だ。
和也はありさを愛しすぎ、妄信していたのだろう。つい口が滑り、全く気が付かずに、和也プロデュースゲームの運営資金持ち逃げを許してしまった。
気が付いたのも、彼らの捕捉を命じたのも高崎だ。
そう、彼らだ。
ありさには本命の彼氏がいた。
和也は知らずにいたが、店でもよく見た顔のスタッフの一人だった。
そいつがありさを唆し、和也の金を持ち逃げさせたのだ。
ありさは、本命を庇ったのだか、たんに逃げ遅れたのだか、あっさりと死んでしまった。本命の男だけが和也の前に引きずり出され、そいつはみっともなく和也に命乞いをした。男はありさに貢がせた金を持ってさらに逃げ、他にもいた女の元で安穏と暮らしていたのだという。
和也がありさを妄信していたように、黒服たちは和也を妄信していた。
他の女たちと同じく、一瞬浮かせかけた腰を和也の隣に下ろし、彼女は微笑んだ。
「いいのかよ……聞いてなかったのか? あれ一本百万だぜ」
けだるく手の平で指した先では、見目麗しく装い、丁寧なヘアメイクを施していたはずの女たちが、掴み合い罵り合いながら、金とダイヤで作られた一本のつまようじを奪い合っている。
隣に座る女は軽く肩を竦めると、自慢げに手を前に伸ばして見せた。美しく彩られた爪の先にはキラキラしたビジューとジュエルパーツがトッピングされ、華やかな照明を反射させて輝いていた。
「百万は惜しいけどー、今のネイルお気に入りなんだよね。したばっかなのに傷ついたらイヤじゃん?」
けらけらと笑う女に、和也は(ネイルって言ったって、百万あったらいくらでも塗りなおせるだろ。計算もできないアホなのかよ)と、内心で嘲う。
女は猫みたいに肩口にすり寄ってくると、にんまりと口の端を上げて和也の顔を覗きこんでた。
「……百万円のつまようじよりか、そんなのを簡単にぽいって出来ちゃう人の方に興味あるかなー」
寄せられたせいで、ふにゃりと形を変えた胸元の白い肌から、いい香りがした。わかりやすい手練手管に、まだ柔らかかった心が簡単に跳ねた。
もちろん、白い肌に煽られたのもあるが、女が発した『興味がある』という言葉が胸に沁みた。
瞬間的に、金より自分を見てくれた、と思ってしまったから。
女の名前は『ありさ』といった。
本名なのかはわからない。おそらくは源氏名だろう。
和也の父親や、帝愛の幹部たちは足を運ばないような、一応会員制であるだけの、一段落ちる店勤めの女だ。元ヤンか風俗嬢を兼ねているのか、言葉遣いは荒く崩れていたし、さしたる教養もなさそうだ。
けれど、地頭は賢いのか、普段和也を取り巻いている女たちとは違って、会話が成立した。ニーチェにトルストイといった一般知識はてんで持ち合わせていなかったが、和也の考察を遮ることなく、にこやかに頷いて話を聞いてくれた。
時々は一考に値する鋭い疑問を挟みまでした。
いや、それだってただの惚れた欲目だったかもしれない。
頭いいね。物知りだね。いろんな事考えてるんだね。通り一遍の誉め言葉を織り交ぜて打たれた相槌に、語るつもりもなかった文学論まで口にしていた。
「和也ってすごく一杯本読むし、頭いいし、自分でも小説とか書くの?」
本を読む人だから、小説を書く。自分では読まない人間の発想だ。
だが、和也は何気なかったのだろう言葉に天啓を受けた。
そうだ。小説だ。
なぜ自分は今まで小説を書かなかったのだろう。
小説は一人で物語と向き合い、言葉を綴る作業だ。書き上がるまで、そこに他者が介在する余地はない。自分だけの力で、何かを生み出すことができる。生まれる感動は自分自身と読者だけのものだ。
やっと進むべき道を見つけた。
「小説……ね、書いてみてもいいかな」
「私のことも出してね。書けたら読ませてー」
気楽な様子でありさが腕に纏わりつく。それから和也は、面白そうなアイデアが浮かぶと端からありさに話して聞かせた。少年が無人島に漂流する冒険譚、厭世的な青年が巨悪を暴くサスペンス、王子様が哀れな花売り娘を見出すラブロマンス、どれも自分ではそれなりに思えたが、なかなか書き出すことはできなかった。
書き出しの一文がどうしても思いつかなかったし、いざ文章にしようとすれば、頭の中では生き生きとしていたはずのキャラクターたちは、これっぽっちも動きだそうとしなかったからだ。
ありさはいつだって、何も形にしていない和也の思いつきを面白そうだと誉めそやし、早く読みたい、と甘い声で強請ってきた。
いざ書こうとして何も書けないことに気が付くたびに、ありさの元に足を運んだ。ありさからイベントの知らせや、今日は来ないのかという連絡が来れば、必ず店に向かった。
ありさは売れっ子だったから、イベントの日には席に腰を落ち着ける暇もないようなありさまだったが、この席だけがほっとする、と言われればイベントに来た甲斐があると思えたし、本当は好かれていない他の席の客を憐れむ余裕まで持てた。
ありさを喜ばせたくて店では必ず高い酒を入れたし、ありさが望むものは何でも贈った。ただ、ありさのための物語だけが書けなかった。
ひとつ言い訳をするなら、和也は忙しかった。
和也は小説家になろうという思いつきをありさ以外には話していなかったし、陰に日向に付き従っている高崎をはじめとした黒服たちにも口外を禁じていた。もし、それが父や兄の耳に入れば、それがいかな駄作であろうとも、帝愛の総力を上げてバックアップされることが約束されているからだ。それでは小説家を志す意味がない。
だから、誰も和也が本気で小説家になろうと考えていることなんて知らなかった。ゆえに、和也には帝愛の後継者、あるいは後継者となる兄のより良き補佐となるように、様々な帝愛流の帝王学が課せられていた。
部下たちの使い方や、経済の流れの作り方、他人の動かし方など、学ぶべきことは和也の前に山積みだった。
ありさの前で、まだ一文字も綴っていな小説の話をする時だけが和也の安らげる時間だった。
ありさの隠しきれないはすっぱな喋り方は、記憶の中にある、母のいつまでたっても日本語に不慣れな言葉遣いにどこか似ていて、時折まだ母を無条件に慕っていられた頃を思い起こさせてくれた。
文壇に新風を。文芸界にどでかい金字塔を。
まだ何も書いていない和也には、いくらでも放言できた。何も書いていないということは、いくらでも夢想できる、ということだ。
自分がしていることのバカバカしさにはもちろん気が付いていたが、いくら作家を志したところで、和也が帝愛の御曹司であることは変わらず、いずれ作家の夢だって萎んで消える。
誰よりも和也自身がそのことをよく知っている。誰よりも、和也自身が、和也の夢を信じていなかった。
けれど、ありさは、和也がどれほど野放図な小説の話をしても、侮ることなく誉めそやしてくれた。
ありさが、ありさだけが、和也の夢を、和也を信じてくれていた。
……和也がそう信じたかっただけだと気が付いてしまったのは、ありさの訃報を知らされた時だ。
和也はありさを愛しすぎ、妄信していたのだろう。つい口が滑り、全く気が付かずに、和也プロデュースゲームの運営資金持ち逃げを許してしまった。
気が付いたのも、彼らの捕捉を命じたのも高崎だ。
そう、彼らだ。
ありさには本命の彼氏がいた。
和也は知らずにいたが、店でもよく見た顔のスタッフの一人だった。
そいつがありさを唆し、和也の金を持ち逃げさせたのだ。
ありさは、本命を庇ったのだか、たんに逃げ遅れたのだか、あっさりと死んでしまった。本命の男だけが和也の前に引きずり出され、そいつはみっともなく和也に命乞いをした。男はありさに貢がせた金を持ってさらに逃げ、他にもいた女の元で安穏と暮らしていたのだという。
和也がありさを妄信していたように、黒服たちは和也を妄信していた。